群れ
先日クリンソウを見に行ってきました。
前回訪れたのは6年前。
光も影もバランスだよね。
どっちが良いも悪いもなくて、どっちも在るから良いんだよね。。
自然の中で木漏れ日を眺めていると、いつもそう思います。
奪ったり、奪われたり…人間同士のドロドロしたあれやこれ。俯瞰するとちっぽけで愚かなことですが、渦中にいると案外疲弊してしまうもの。頭で分かっていても、きれいごとばかりでは割り切れない氣もちもあるし、そういう泥臭さが人間らしさでもあるのかもしれませんが。
ある出来事を聞いたことがトリガーになり、出てきた言葉たち。私、案外怒ってたのね。
身内のアレコレを眺めながら、ずっと上手く言葉に出来なかったのですが、ずっと心の中にあったのはこれでした。
自分にとってもなかなか辛辣な言葉 ^^;
親戚たちのことは諦めとか憐れみとか…そんな氣持ちと共に、スーっと一線を引いて平氣になっているつもりでいましたが、感じていないわけではないのよね。
怒りより悲しみばかり鮮やかになるけど、それをどうにもできないから虚しい…
そもそもどうにかしてやれることなんてないし、この割り切れなさも間違いなく『私』なのですが、私は特に『悲しい』の扱いが苦手。
先日インドの大好きなおばあちゃんが亡くなりました。『やっと彼女の魂は自由になりました』と連絡をいただき、私も
彼女にとって死は辛いことではなかったのだから、これは悲しいことではない。
そう自分に言い聞かせて納得していたつもりでしたが、ある言葉をきっかけに氣づいてしまいました。『私は』本当はすごく悲しかったということに。
まだそんな誤魔化しをしていたのか…
自分がどう感じているかよりも、相手がどう感じているかを考えて、自分の氣もちや感じていることをそれとすり替える…という高等技を自分がやっていることに氣づいたときは、なかなか衝撃でした。手強すぎ。。^^;
そもそも何を書こうとしたのか、よく分からなくなってきて備忘録!!ぶちこみ!!みたいになってきましたが、そうそう!
クリンソウの群れが神々しいくらい美しいと思ったのは、しっかりと輝いている自立した個々の美しさがあってこそだと感じたのです。
群れるとか繋がるとか、極力避けて生きてきたけど、それも悪くないんじゃないかなと。
自分自身が弱くて、誰かに依存したり寄りかかったりするのが怖くて避けていましたが、群れの中だから(他人との関係がある)こそ氣づけることもいっぱいあるし、切磋琢磨できることもあるよね、と。
面倒ごとも増えるかもしれませんが、それを面倒ごとと捉えるのか、チャンスと捉えるのかで世界は全く別ものになるはず。
『豊かさを分かち合うこと』は私のテーマですが、そこに『奪い合うのではなく分かち合うこと、循環させること』をしっかりと加えたいと思います。そうやって、割り切れない世界で、泥臭く美しく生きていきたい。