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ipu

フラで使われる楽器にipuがある。ipuは瓢箪のこと。2つ組み合わせて作ってあるものをイプヘケといい、1つだけのはイプヘケオレというそうで、イプヘケを初めて見たときには驚いた。片手で持てる瓢箪のイメージしかなかったところに、小さな子どもぐらいの両手で抱えるほどの楽器だったからだ。

イプは大地に打ちつけるようにして音を出したり、ぷっくらしたところを叩いて音を出したりする。イプヘケが大地とともに出す音は低音でどぅんと響く。肩のあたりを叩いた音はカッカッと乾いた音がする。

古典フラを見たりチャントを聞いたりすると、どういう訳かウルウルする。前世のどこかでハワイアンだったのか、DNAのどこかに何かが組み込まれているのか、何か切ないような気分になる。それは「盆唄」を見たときと同質のもののようで、いずれゆっくり考えてみることにしよう。

ハワイアンの文化でも謙虚さは大事な美徳とされているそうだ。日本の謙譲の美徳に通じるものがある。もちろん、その裏側にはいろいろうごめく感情のあれこれはあるだろうけれど、祖先や老人を大事にして、謙虚に教えを学ぶというカルチャー。
一方、例えばここの高校などでは、チアリーディングのメンバーに選んでもらうために、コーチに盛大に贈り物をすることなど日常茶飯事だ。極端に言えばどんな手を使ってでも自分をアピールすることが良しとされる面がある。「できます!」「私、すごいんです!」と言ったもの勝ち的な。

この中で、パンパシフィック的な謙譲の美徳は圧倒的に不利だ。

かなりできていても「いえいえ、まだまだ」と言い、一歩下がって頭を低くし、目立たないように物事がうまく進むように整えたり、気を配ったりすることは評価されない。されないどころか、最後のところにサッと来て「私がやりました!」と注目を浴びるのが得意な人に油揚げをひっさらわれることも多い。

謙譲の美徳が報われるためには、お互いにその価値観を共有していることが前提になり、また、お互いが必要となる。お互いをひきたて合うのだ。
「私なぞ、まだまだ」
「いえいえ、何をおっしゃる。こんなに素晴らしいじゃないですか」
「いやぁ、それほどじゃないですよ」
「あなたのすごさ、私にはわかります。素晴らしいです」
「お恥ずかしい。あなたこそ素晴らしいですよ」 (以下、繰り返し)

あるいは、同質のセンシティビティを働かせて「ああ、こんなふうに気を使っていただいて、ご配慮に感謝します」のように、物事がスムーズに進むためにだれかが気を配ったり、そっと手助けしたりしていることに気づく文化も必要になる。

自分は自分なりの努力をするにしても、自分がすごいと思うのではなく、周りがすごいと思ってくれること、その努力に気づいてくれる人が必要になる。そっとそこに置いておき、だれかが「お、いいね!」「わ、ありがとう」と見つけてくれることを待つような。そんな感じ。

かつて謙譲の美徳と言われた慎ましさを良しとする価値観と、自己顕示ならぬ自己アピールを良しとする価値観とのダブルスタンダードがAO入試あたりから顕現化したように思う。ハワイではダブルどころのスタンダードではない中、どうバランスを取っているのかが興味深い。

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