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『火口のふたり』脆い「日常」をつくる意味


少し前に友人と2人で、『火口のふたり』という映画を観てきた。白石一文の同名の小説を原作とする映画。原作はまだ未読です。

濡れ場がとってもとってもとっても多かった
いや、まぁ、それはいいや


簡単に内容を書いておきますね。

3.11の震災の影響で仕事を失い離婚もしていた賢治は、元恋人の直子の結婚式に出席するために地元に帰ってくる。
直子の婚約者が仕事で帰ってくるまでの5日間、2人は昔のようにお互いを激しく求め合うようになる。

その期間が終わって、2人は「現実」に戻っていこうとする。
直子は情熱的に愛することができない婚約者と結婚して主婦となり、
賢治はもう一度、働き口を探して社会に出ようとする。

ただ、そうしようとした時に
富士山の噴火が起きることが分かる。
また、日本がめちゃくちゃになる。

直子の婚約者は仕事柄(確か自衛隊か保安庁に勤めていた)、またしばらく家に帰ることができなくなる。結婚は延期。
どうせ日本はめちゃくちゃになるんだ
と言って、直子と賢治は穏やかな日本の最後の時間を2人で過ごそうとする。

実は直子と賢治は血の繋がった親戚で、2人の関係はタブーなものとして描かれている。




個人的には、あまり納得のいくラストではなかった。
だけど、だからこそ色々と考えさせてくれる映画だった。

血の繋がった人を好きになってしまったり、結婚して主婦となるのに元彼と新居で寝たり。

2人は「社会」でタブー視されているものを内に持っていて、それでも期間限定でそれを思い出し記憶の中に葬り去って、社会に戻り「まっとう」に生きていこうとする。

だけどそんな、色んなものを諦めて、抑圧して、それでも価値あるものだと信じて作ろうとする「普通の日常」は
地震や富士山の噴火など自分たちではどうしようもない力によって簡単に壊されてしまう。
じゃあ、そんなもの作ることに意味なんてあるのか。

物語の結末は
「そんな「日常」を作ることなんてやめて「身体の言い分」(本能)に素直になればいいじゃん」
というものだった。(少なくとも私はそう感じたし、部分的にはそれに共感もした)

だけど、2人が期待したように
世界は終わらないし
日本も終わらない
また終わりなき日常が続いていくだけ




「日常」を作ることの虚しさは伝わってきた
でもその「日常」を作っていくことの意味は
映画は提示してくれなかった(そんなものないって言ったらそこまでだけど)

「日常」は作るか壊すしかないのかな

壊してから、もっとよい日常を作り上げていかなくちゃならない

どうするかは自分で考えていかなきゃならないんだろう


感想おーわりm(_ _)m


作品の紹介じゃなくて個人的な感想はスキが付かない

だけどいいもん
自己満だもん

それでも最後まで読んでくれたあなたが大好きです。
ありがとう