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『遺伝・環境論争』についてのテキトー私見

 はじめまして、ナナ_漢那と申します。小説家としての名義は「漢那遼平」でごぜーます。
 電子書籍でSTORESさん及び、Kindleさんで販売しておりますが、まだまだ認知されておりやせん。

 と、まあ、そんなことはさておき、気ままに文章を書きたくなった時用に、noteを始めました。
 てなわけで、今回は、心理学の業界で100年くらい前に大論争になって、わからんまま放ったらかされている『遺伝・環境論争』について、私見を述べさせて頂きます。

『遺伝・環境論争』を簡単に言うと、

「遺伝と環境、ヒトに影響与えるのはどっちか?」
 というものです。
 遺伝の方がでかいと主張する側は、一卵性双生児がそれぞれ別のところで育っても、好きな食べ物とか共通点多いねん、との研究データから主張し、
 環境の方がでかいと主張する人は、いやいや、他は色々ちゃうやん?と主張して、お互い全く譲らなかった、らしいです。
 今の僕は、「環境の方がでかいやろ」と、思っております。
 なんでか?
 実際環境変えたら楽しく成長できてるから、という極めて個人的かつ主観モリモリな理由です。

 確かに、遺伝によって骨格とか肉体的なものはほぼ決まります。アスリートの世界などは、遺伝の影響が大きい職業だと思います。
 今回、環境寄りになっているのは、肉体面ではなく、精神面においてです。

 よく、「成長したかったら環境を変えろ!」と、聞きようによっては暑苦しい言葉を耳にします。でもこれ、結構正しいかも? と思っています。
「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、環境にはそれに近い人たちが集まりがちです。
 これ、なんででしょうか?

「雰囲気にいつの間にか馴染む・染まる」

 からじゃないか? と、思っております。

 例えば、一日の大半を過ごす場所が、上品で清潔な雰囲気だったら、自然と自分もキレイ好きになったり、逆に臭かったら自分もぷんぷん臭っても気にならなくなるような感じ。それが心理面にも言えるのではないか、と、いうわけです。
 だから、仮にめちゃくちゃべっぴんさんに産まれたにも関わらず、育ってきた環境が壊滅的だと、せっかくのミス・ユニバースになれる逸材なのに、金属バットを持ち歩き、服は返り血、髪は怒髪天を衝き、目はイッている、なんてなことにもなりかねません。はい、たとえが酷かったですね、てへぺろ(・ω<)

 まあ、そんな大仰なものでなくても、ヒトというものはあらゆる情報を五感を使って感知しているので、微細なものも、塵も積もれば山となる、てなわけで、その人の人生を少しずつ形作っているのは、遺伝よりも環境ではないか、なんて思うわけです。

 ただ、この環境寄りの考え方は、生きる上で楽です。「自分を変えたい!」となった場合、環境変えればいいだけですから。遺伝だと、そーはいきません。そして、変えたい人はより良い環境を求めて、同じような志の人と出逢えるし、このままでいい人は、同じままの環境を保持すればいいわけなので、大腿骨を伸ばそうとするよりはるかに容易ですし、大抵の人にはすぐ実行可能な行為ですよね。
 そしてこれ、自分の人生で実験したら、そうでした。なので、イヤなら辞めろならぬ、
「ねえあなた、イヤなら変えよう、環境を」
 と、意味もなく五・七・五にしたのはオチが浮かばなかったからなのですが、こんな感じのヤローでございます。気長にお付き合い頂ければ幸いです。

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