小説『集落街』試し読み その4
※この小説には暴力的な描写がごさいます。そういうものが苦手な方は、お手数ですがブラウザバックをお願いいたします。
第一章――彼は、風
音に呼ばれた。そんな気がした。
求(きゅう )は大学院の講義室で、今日の晩飯どうするかな、とぼんやり考えていた。下手糞なレジュメをそのまま音読する同期の男にうんざりし、教授にバレバレなのに筆談やメールをしている同期の女子には辟易し、諦観の眼でそれらを眺めている教授の授業方針にも飽きてきていた。大学院といっても、その程度のレベルだった。
そういや何で大学院なんかに入ったのかな? などと、他人事のように思った――カウンセラーになる気なんてあるか? 臨床心理学なんてクソじゃないか。というか、俺がカウンセラー? 向いてねえよな。現実感ねえよ。
思考が晩飯から現実感の希薄さに移行して、求は突然、自分についてわからなくなった――俺ってカウンセラーになるようなお人好しだったっけ? 昔はやんちゃしてたしな。あ、いや、酷い目にも あったっけ。外向的なのか・内気なのか、いまいちピンとこねーな。
求の記憶では、大学に入って両親と不仲になった。権威的な父親と酒の席で口論になり、家を飛び出して下宿した。奨学金という名の借金が肩に積もっていく生活をしながら、惰性で大学院へ進学、肩の荷が増える。
しかも入った大学院が、やたらと臨床心理学が大手を振って歩いているようなところだった。科学的な根拠もないくせに、他人の心を全て自分がわかっているような態度の臨床心理士には吐き気さえ覚えた。そう言えば、と求は思い出す。自身の右目を隠すヘアスタイルに、「臨床にふさわしくない」と言ってきた教授がいた。慣れたことだったが、「臨床にふさわしいって何ですか?」と挑発したくなり 、髪をかきあげると絶句された。求の右目は見るに堪えない様だった。
――昔は、どうしてたっけ? ああ、そうか、眼帯していたのか。あれ? 本当に?
自身の記憶があいまいになっている。眼帯をつけて登校した記憶が僅かしかない。昔から髪で隠していたのだろうか、と心の中で問いかけても記憶は答えてくれなかった。
仕方ないので現実に目を戻す。相変わらずレジュメ音読がBGM。誰も、現状を楽しんでいない。臨床心理学は女の割合が 多く、入って二か月で既に小さな派閥ができている。少数派の男はいつも肩身が狭い。そのくせ役割だけは押し付けられる。教授の間では、学派を盾にした幼児退行したかのような派閥争いがある。事例について相談し合う ケース・カンファレンスでは、教授たちの知恵遊びのマスターベーションがどばどばと流されるだけで、ケースを提示した先輩はロクなアドバイスすらもらえず混乱だけ渡される。
そんな現実をあと一年十か月我慢しなければいけないの か、とため息を吐いたとき、
――いつまでもそんな辛気臭いところにいるんじゃないわよ。
変声期前の、ややツンとした少女の声が聴こえた。
え? と求は辺りを見回す。ブラインドの隙間から陽の光がわずかに差し込んできている。空調のゆきとどいた、無駄に清潔な小教室。相変わらずの筆談・メール・諦観・音読。ゲロをぶちまけたくなるような〝現実〟では、誰にも少女の声は届いていないようだった。
「辛気臭い、か」
求はぽつりと呟いた。
その声に、全員が眼を向けた。
やっべ、と求は思った。だが、彼らの濁った眼を見ると、全てが下らなく・どうでもいい世界に見えてならなかった。
――確かに辛気臭いな。 求は、どうしようか一瞬戸惑った。それをすれば後戻りはできない――だが、戻るってどこへ? 俺はこんなところでいつまでもじっとしてなきゃならないのか?
「あほらし」
求は、言った。彼ら全員を、否定した。〝現実〟を、蹴とばした。二十三年間抑えていた水が、とうとう決壊した。
――俺がいる場所は、ここじゃない。
肚が決まれば、行動はついてくる。レジュメも筆記用具も置きっぱなしで、鞄を掴んで、椅子から立ち上がる。呆然とした然の視線を無視し、歩く。振り返ることもせずに、ドアを開けて講義室を出た。
ふう、とため息をついた――俺は、棄てちまった。二十三年の流れを、ぶった切ってしまった。後悔は? 皆無なんだよな。
行くあてはなかったが、こんなところにいたくなかった。
それを祝福するかのような、晴天。
大学院を離れる前に、喫煙所に向かった。年々喫煙所が縮小されたせいで、喫煙マナーを守らない奴が増えた。キャンパス全面禁煙なんて考えた奴は馬鹿だと求は思う。愛煙家の教授もいるというのに。
三限目なのに、軽音サークルがみみっちい音楽を垂れ流していた。求はウォークマンのイヤホンを耳にさし、外界をシャットアウトした。煙草の煙を吐きながら考える――これからどうしよう?
そんなところにまた少女の声が聴こえた。
――こっちにおいで。だいじょうぶ、病気じゃないから。
呼ばれているという予感が、確信に変わった。少女の声が正しいなら、病気じゃないらしい、と、求は煙草を咥える。そして、少女の声に意識を澄ませる。映像が見える。大学からぐんぐん西へと俯瞰図が移動し、海に突き当たる。知らない場所だが、映像は鮮明だ。電車で行く距離だな、と、予想する。恐らく三十分は電車に乗らないといけない距離だ、と。
煙草をもみ消し、立ち上がる。とりあえず、下宿先に戻って金と荷物の整理をしなければならない。両親とは不仲だから、今は知らせる必要もないだろう。
そんな求を後押しする、もう一つの声。
――飛べ。
と言う。少女の声ではない。もっと歳のいった・威厳のある・深い声だった。その声は、
――こんな世界、出たらいいさ。
と求に呼びかけた。求は一瞬、訳が分からなくなった――二人の声? どういうことだ?
だが、求は立ち直りが早かった。病気ならそれで結構、退屈していたところだ、こっちの方がファンタジックだ、と、現実よりも物語に心を置く性格の求は、状況を受け入れた。
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