映画「花と雨」 〜距離感と必然〜

映画「花と雨」を鑑賞した感想
東京国際映画祭 令和1/11/1
監督:土屋貴史 主演:笠松将 舞台トークあり

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ラッパーSEEDA(吉田)の特殊な存在が中心となり、
作りあげられていった、映画「花と雨」を観て、
映画と鑑賞者との間に生まれ、じわじわ体感していくような、
距離感の曖昧さについて、興味深く考えさせられました。

あまり「花と雨」の楽曲は聴けていないので、
ほとんど映画を通して受け取った
人間、吉田の雰囲気について、納得したところから記します。

映画「花と雨」では、原案(企画)、主人公、劇中音楽、この三つの
重要なポジションを、吉田(現役ラッパーSEEDA)が担当しています。
経緯は不明ですが、土屋監督に依頼したのが、吉田側になるそうです。
改めて、考えてみますと、
これらは、かなり大きな要素になります。
制作においても、吉田は監督よりも大きな影響力がありそうです。
もろもろの表記では、SEEDA(吉田)の存在は、さほど目立ちませんが、
見せ方の微妙なバランス調整の結果なのかもしれません。

さて、その吉田。
映画を観てみますと、
外国でも、日本に戻っても
学校という環境に、どうも馴染めない。
そんな少年時代を過ごしていたようです。

鑑賞後、映画サイトのレビューを見てみますと
吉田の行動は、概ね、一般の感性からみると、
感情移入や、先読みしづらい、特異なパターンに類別されるようで、
いささか「根っから難しいタイプ」の、
人間像が浮き彫りになってきます。

それはそれは、やや変わったところがあるのでしょう。
ですが、身を持って享受した内外の違和感を、
世の中の不条理ごと、跳ね返すパワーが吉田にはありました。
そのような若者の成功ストーリーになります。
ほぼ内なる葛藤を克服するのに、音楽の力を得たのだろうな、と
楽曲を聴きつつ、映像や、想像に委ねつつ、、、

一方、監督の土屋貴史さんは、
TAKCOM名義の過去作品を観ますと、
CMやMVなどで、特殊効果的なビジュアルを
あまり言葉を使わない表現スタイルを貫いています。

映画「花と雨」では、土屋監督は、
等身大の吉田を、少し離れた距離で、
空気感や都市風景の光と共に描いています。

言葉になりにくい思考、感性を抱えた主人公、吉田は、
彼を注目する人を、難解の泥沼に吸い込んでしまうような、
ダークな花も秘めている、内向きな人間でもあるので、
やはり土屋監督のように「触れられない距離」で描くくらいが、
映画作品として、バランスがとれて正解だと思います。

結果的に、鑑賞者が主人公と適度な距離間を保つ、
やや上品な映画になった。と言える気もします。

なお、単純にヒップホップブームに乗るようにして、
少しぼんやり、時の巡り合わせで成立した、
刹那的、かつ偶発的な映画のようにも思えますが、
SEEDA側が、土屋監督へオファーしたことなどを改めて考えますと、
色々と、必然的に意図しているところが、見え隠れして、
長編映画と、実際に生きているラッパーの人生がリンクしてきますし、
かなり面白い実験だったのではないか。
と、確信犯的に思えてくるのも、個人的に少し良い感じです。

伸びしろを感じるところも多々ありました。

なお、映画鑑賞後、素朴な感想になりますが、
不思議と、SEEDAの現在進行中のプロジェクト「ニートtokyo」の
ネーミングセンスも、ほんのりわかる気もしますし、
正直、土屋監督が、ゼロから企画した長編映画も観てみたくなりました。

かなり気が早いのですが、次回作にも期待してしまいます。


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