たとえ自分の幸せが誰かを傷つけようとも
こんにちは。なみぃです。
今日のテーマは少し複雑なテーマ。
「たとえ自分の幸せが誰かを傷つけようとも」
SNSやネット上にむかって
相手の状況や背景もしらない人たちに向かって
何かを発信することってけっこうこわい。
それは、
SNSにいるキラキラ起業女子とか
大学時代にいっしょにいた人が突然有名になってたり超豊かになってたり。
毎日を楽しみまくっていたり。
不意に誰かの幸せを見せられると、
急に比較して自分がちっぽけに思えたり、不自由に思えたり。
そんなふうにして
少なからず、なんかモヤモヤしたり、落ち込んだりした経験は
誰にでもあるんじゃないでしょうか。
人の幸せをまっすぐに受け取れない自分にも落ち込んだり。
そんな経験があるからこそ、
自分の幸せや伝えたい事があったときにも
「誰かを傷つけるんじゃないか」って気持ちが
先に来て、本音からの発信や発言ができなくなる。
・・・
でもそれって、人間として、社会として、
本当にいい方向に進むんでしょうか。
もちろん、悪意をもって人を傷つけるのはNGだけど
じゃあ悪意なく人を傷つけるのはOKなの?
それもまた難しい。
でも、それでも
たくさんの人が自分の考えを発信してきたからこそ
これだけ価値観が多様化したということも忘れないようにしたい。
だから、何か発信をしてそれに対して
もしアンチコメントがいっぱい来たとしても、
みんながひるまずに「これが私です!」と言える社会にしたい
今私たちは、一番難しくて複雑な状況に生きているんじゃないでしょうか。
ダイバーシティインクルージョンの究極の答えは
「本当の意味でごちゃ混ぜになること」
なんじゃないでしょうか。
価値観が多様化する現代において、
自分との違いのある人を受け入れようという
メッセージや研修やニュースはたくさんある。
でも本当は、
その受け入れようとする姿勢こそが
相手との溝を深めているのかもしれません。
欧米人だらけの中に日本人の自分が一人ぽつんといたとして、
周りの欧米人が「日本人の価値観や文化を理解しよう」
「アジア人を理解しよう」なんて一生懸命学んでくれたとしても
マイノリティ感は解消されないんじゃないでしょうか。
このマイノリティ感を解消する方法はひとつ。
そもそも、その場に、様々な国の人が混じり合っている状態をつくること。
アメリカ人フランス人ドイツ人ロシア人中国人モンゴル人イタリア人
日本人マレーシア人フィリピン人ブラジル人アフリカ人・・・
たくさんの価値観や文化が混じり合っていればこそ
マイノリティを感じなくなる
これはあるグローバル企業で働いている友人から聞いた話。
「なるほど!」と思います。
みんなが自分を出さないからこそ、自分を語らないからこそ、
表面的にマイノリティに見える人だけに焦点が当たってしまう。
だけど、もっともっと、本当は一人一人全然違うはずで。
みんながひとりひとりが、
自分の内面や外面を「これが私!」と自分の口で語ること。
これこそ、
ごちゃまぜ感を作り出すことになると思うんですよね。
価値観が多様化して、何か言えば炎上するのかもなんてこわさがある
現代において、私たちが「語ること」から遠ざかるほどに
人との関係はむしろ溝が深まる。
だって誰かに気を遣えば遣うほど
自分と同じカテゴリの人にしか本音を話せなくなるから。
そのカテゴリは、結局、表層的なものでしかないのに。
たとえば
彼氏がいる or いない
大学行った or 行ってない
結婚している or していない
子供がいるいない or 何人いる
働いている or 働いていない
離婚した or していない・・・
もちろん、同じような経験から得てきたものや価値観が似ている前提で
話をする安心感もあるし、話のリズムも合うかも。
だけど
そんな表面的なものにしばられて
自分と似たような境遇の人にしか深い話ができない。
本音が語れない。
そんな世の中になったら、
それこそ、せっかく多様化した現代から
逆戻りどころか、より自分と違う人たちとは「表面的な会話」しかできなくなり、自分と似たカテゴリをいくつも輪にかけて持っている人としか「深い会話」ができなくなる。
そうなると、表面的多様化は進むけど、
根本的な多様化からはむしろほど遠くなるんじゃないかと思うのです。
だから、解決方法はひとつ。
みんなが「自分は何者か」「何が好きで嫌いか」「自分はどんな人間でありたいか」自分の経験をこわがらずに語ること。
そうすると、自然に
価値観がごちゃまぜになっていくんじゃないでしょうか。
今の時代、ちょっと発言すればアンチやら炎上やらで怖さもあるけれど
そんな時代に生きる、私たちこそ「語りをやめない」
踏ん張りどころじゃないかと思っています。
一緒に発信していきましょう。
もちろん、目の前の人への思いやりは忘れずに。