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自分のものさしって何?問題

先日とある講演会で、
「他人のものさしで自分を測らず、自分のものさしを持とう」
という言葉を聴く機会がありました。

これまでの人生でも、何度か耳にしたことのある言葉です。

僕は人と比べて一喜一憂しがちなので、そういう言葉にはとても励まされてきました。
「自分は自分でいいんだ!」と思えると、なんとなく自信が湧いてきますよね。

その一方で、最近は自分の中に新しい問題が生まれています。

それは、「自分のものさしって何?」問題です。

自分のものさしって何?問題

「自分のものさし」ってなんでしょう。

「自分のものさしを大事にしましょう!」と言われると、一時的にはなんとなく納得して、嬉しい気持ちがします。

でも結局いつの間にか、またいつもの「人と比べる自分」に戻ってるんですよね。
そしてまた同じように「自分のものさしを持とう」というニュアンスの言葉に出会って、心に響くという。笑

なんで「自分のものさし」派でいられないのでしょうか。

それを最近考えてみたのですが、おそらく「自分のものさしを持つ」というのは、耳ざわりはいいけど、結構難しいことだからじゃないかと。

なんとなくそういう自分のものさしもあるような感じもするのですが(心から好きと思える趣味とかね)、それだけでいつでも幸せでいられるかというと、そうでもなさそう。落ち込むときもあります。
少なくとも、僕は全ての悩みを解決してくれる「自分のものさし」は見つかってなさそうです。

みなさんは「自分のものさし」ってあるのでしょうか。また、それは何年経っても全く色褪せない黄金のものさしになっているでしょうか。

自分のものさしなんてあるのか?

人は、自分一人で生きていません。毎日いろんな「他者」と関わりながら生きていますよね。
食事ひとつとっても、色んな他者が関わって生産されたものを、自分の胃袋に入れています。今自分が食べているサラダも、作る人、流通に乗せる人、運搬する人、スーパーに陳列する人、レジを打つ人、etc…と無数の人が関わって、自分のところに来ています。

そういう他者と関わり合いながら生きるのが前提になっている社会の中で、「自分のものさし」って持ちうるのでしょうか。

よくよく考えてみると、自分だけのものだ、と思っているどんなことも、なんらかの他者の存在があって形成されているように思えてきます。
仕事にしろ趣味にしろ、あるいは自分の価値観ですら、他者との関わり合いの中で、形成されてきたなと思います。

それから、日本語には「ご縁」という言葉があります。
「これは絶対何かに導かれているな。ご縁だな。」と感じる瞬間ってありますよね。
そういう、人間だけじゃない他者的なものの存在も認めながら生きているなあと思います。

そういうふうに考えてみると、自分だけで形成されたものはどこにもなくて、全て色んなものとの関係性の中で成り立っているような気もします。

自分と他人の二元論なのか?

さて、「他人のものさしで自分を測らず、自分のものさしを持とう」という言葉を改めてよくよく考えてみると、それが心に響くのは「人と比べなくてもいいんだよ」という温かいメッセージが届いてくるからだなあと思いました。

人と比べちゃうのがしんどいんですよね。比べれば比べるほど、どんどん自信を失ってしまう。そういう気持ちに、そっと寄り添ってくれて、別の方向性を示してくれるのが、この言葉なんだなと思いました。

ただ、一方で「自分のものさしがあるから見つけようね。」というメッセージは、また別の苦しさを生んでしまう可能性があるように思います。
僕の場合は、どこまでも他者ありきの価値観なので、「自分のものさし」がないことに劣等感を感じてしまって、もやもやしていたんだなと思いました。


ここで、ちょっと話がそれますが、明治時代の哲学者・宗教家に清沢満之という人がいまして、この人が言葉が最近心に残ったので紹介します。

「この世界はあらゆるものが全て絡み合って成り立っていると考えています。そうすると、世界中のあらゆる問題が、全て関係しあっているのだから、自分は世界中のあらゆる問題に責任を持たなければなりなりません。」

「もし真面目にこれを遂行しようとすると、最終的に「不可能」に突き当たるしかなくなります。私はこれに突き当たって、非常なる苦しみを致しました。」

『清沢満之全集』より意訳

清沢満之は浄土真宗に帰依していた哲学者ですが、上記のように告白しています。
この世界は、全部が関係して成り立っているから、全ての問題を自分ごととして責任を持たなければならない、と言っているんですね。
でも全ての問題を解決することは、当然できません。そういう自分の有限性に突き当たった時に、無限性を持つもの=宗教 への世界がひらかれていく。というふうに述べています。

ここまで他人か自分かの二元論で考えてきましたが、これは、そのどちらでもない、人知を超えたところにものさしを置きにいくような考え方だなと思いました。

個人的な結論

さて、話を戻します。
じゃあどうしていこうか、ということですが、暫定的な結論としては、
まあ、こだわらないことかな。と思いました。

長い人生を生きていく中で、人と比べてしまうこともあるかもしれません。でも死ぬまで一生その人と比べ続けるわけじゃないので、それは一時的なものととらえて、こだわりすぎない。なんなら、たまたま人生の道が重なった同行として、競争を楽しんでみてもいいかもしれません。

あるいは、自分だけのものさし見つけたわ!と思うことがあったとすれば、それは素晴らしいことなので、そう思っておこう。でもあんまり絶対視しすぎない。期待しすぎない。

そのどちらもしっくりこない。というときは、清沢満之のように、無限性を持つ他者(宗教)を想定するのも良いかもしれません。人間の相対的なものさしではなく、絶対的なものに身を任せていくのが、宗教の基本方針です。
(そっち側の世界に入ると、それはそれで「信じなきゃ」という切迫心が生まれてしまって、また苦しいのですが、この話はまた別の機会に…)

まあ、そんなふうに、日々の自分の心のあそびを楽しみながら、軽やかに生きていけたらいいのかなというのが暫定的に今思ってることです。

以上、最近の心にあったものを言葉にしてみました。

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