6月2日の日記のようなもの

一度刈り取っただけで捨ててしまった豆苗のことをぼんやりと考えていた。

SNSで誰かが今の東京の空が綺麗だと言っていた。仕事もほとんど終わっているように思えたので、散歩をすることにした。時間はちょうど18時半をすぎたところだった。

今僕が住んでいる街は、高い建物はないが、小さな家がどこまでもぎゅうぎゅうに詰まっていて、どこを見上げても空の全貌を掴むことができない。この街のことはとても気に入っているが、今後僕がこの街を引っ越すとしたら、きっと高い確率で空が見えないことが原因になるのだと思う。

グレーな建物に遮られた部分的な空を見るに、夕焼けが綺麗らしいことは分かった。どうしても空の全貌が見たくなったので、見渡しの良いところまで歩いてみることにした。あてはない。もうこの街に3年も住むのに、僕は空全体を確認できる場所を見つけることができていなかった。

少しピンク色に染まった空を見つめながら、空の面積が広がることだけを意識して歩いたが、なかなか面積は広がっていかなかった。少し広い駐車場や公園でもあればいいのだが、ここではそういうのびのびとした土地の使い方が許されていないようだった。ちょっとのスペースを作る隙もなく、ぎっしりと家が詰まっていて、それがどこまでも続いていた。

そういえば、僕が社会人を始めた頃、ビルの20階で働いていて、いつも夕方になると、全面ガラス張りになった窓のブラインドの隙間からオレンジ色の光が差し込んできて眩しかったり暑かったりした。当時の僕は、その気になれば毎日でも見渡す限りの綺麗な夕焼けを眺められたはずだが、ビルから美しい景色をみた記憶はほとんどない。唯一思い出すのは、どこかの花火大会の日、打ち上がる花火が隣のビルに反射して綺麗に見えたことくらいだ。そう考えると、僕は本当に夕陽が好きなのだろうかと思った。だけど、昔からどこかに旅行に行けば必ず夕陽を見ることを楽しみにしていたはずだし、少なくとも今、こうして綺麗な夕陽を見るために散歩しているのだから、それでいいと思った。

散歩というのは、行きは楽しいが、帰りはつまらないものだ。行きはどこにでも行っていいし、知らない場所がたくさん見つかる。それに対して帰りは目的地が決まっていて、進めば進むほど知っている場所ばかりになる。

これ以上遠くに行くと、帰り道がとても退屈なものになりそうに思われたので、夕焼け空の全貌を掴むことは諦めて、引き返すことにした。

行きで通った道を通らないことと、できるだけ大きな道路に出ないことに気をつけながらしばらく歩いていると、どの道も特別な個性を放っているように思われた。このあたりには家しかない。家がぎっしりと詰まっている。だけどそれは、まるで全部が違う味の飴袋のように、一つとして同じ味はなく、どの家も世界にたった一つの存在であることを静かに主張しているようだった。季節限定のアジサイが、良いアクセントを生んでいた。

そういえば、この散歩の間、人にはほとんど出会わなかった。出会ったとしても、誰にも僕のことは見えていないように思えたし、誰も僕の散歩に干渉してこなかった。目に入るすべてのものが、僕の散歩を楽しませるために存在しているかのように思えたが、すぐにそんな感覚はどこかに行ってしまった。

歩きながら色んなことを考えた。その思考はどれも僕を良い気分にさせるものだったような気がするが、家に着くと、その全てをもう思い出すことはできなかった。

また、豆苗のことを考えた。豆苗の豆の部分に対して、申し訳ないような気持ちがあった。その感覚は、家の中に出た蜘蛛をそっとティッシュに包んで窓から放り投げようとしたが、どうにも捕まえることができず、諦めてティッシュ箱の裏で潰してしまったときの感覚と似ていた。

言葉で言い表すなら、罪悪感ということになるだろう。その罪悪感がいつまでもなんとなく頭に残っていたのは、おそらく豆苗を捨てる前から、こうなることがわかっていたからだった。

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