悔しいが田舎で暮らしていたい
友人2人と大阪旅行してきた。1日目はサマソニ大阪、2日目は劇団四季ウィキッドを鑑賞。早くも14年くらいの付き合いになる友人との半年ぶりの再会で、お互いの近況を話し合いながら、日々心に積もっていたいろいろの事を外に出すことになった。「最近こんな感じで生きてる」の報告に対して「その心は?」と価値観の核心を探る問いかけが返ってきて、「そうだねえ」とまた話す。そんなやりとり(もはやセッションといいたい)を繰り返していると、薄れかけていた自分の輪郭をふたたび掘り直す作業を、彼らの筆圧を借りながらしている気分になる。まず一つ、書き留めておく。
田舎に暮らすこと。
とにかくウィキッドが素晴らしく、これからも劇団四季を観ようと決めた。こういう体験をするためのお金や時間の支出はいとわないことにしようと。の、だが、劇場を検索したところわたしの住む東北エリアには四季劇場は皆無。地図上の空白が胸に刺さった。(公演によっては四季劇場以外でも見られるようだけど)
田舎に暮らすことが、エンタメとの距離を阻害するとは思う。田舎暮らしでもこの時代、望んだエンタメを享受することは全然できるけど、それが身近にあることはやっぱり羨ましい。東京、大阪。いいなあ、住めばよかったなあ。
いいなあ、住む、、うーん?住みたいか?
都会で暮らす選択ができる機会なんていくつかあったはずだけど、そうしてこなかった。やっぱり住むのは違うかも。なんでだろう。
選びとることができる都会生活、生み出すしかない田舎生活。
情報やモノに囲まれながら、それを自分にとっての害でなく益にする力。都会でしっかり生きている友人をみると、そういう主体性、自己確立性のようなものをとても感じる。
私は仙台での学生生活すら危うかった。あふれる人もモノも、欲しくなっては手に入らなくて、寂しかった。必要なものを選びとる強さも、浸りきろうという思い切りの良さもなく、ただただ過ごして辛くなれば人に依存した。気持ちが埋められなくて、安心材料を力づくで手に入れようとしていた。無理があったと思う。あんな思いをもうしたくない。
都会に住みたいとか思ったけど、いや住みたいけど、だめだわ。ちょっとムリそう。
そう思うと田舎に住んでいることは、自分が望んだのだなと確信がもてる。なんか悔しいけど。私を寂しくさせて惑わすような、モノも人もそんなに無い。私は私のペースで、会いたい人を見つけてつながる。欲しいものは自分から迎えにいく。時間ができたら、休んだり、何かを作ったりする。"主体性"がちょっと△な私には、私って何が欲しいのか、安心して立ち止まって思案できる田舎の余白が必要だったのだと思う。
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