短編小説『犬』#1

 世田谷区の、大小の差はあれどもいわゆる金持ちたちが集まる住宅街には、これもまた金持ちたちの性なのだろうか、ペットを飼っている家が多かった。休日の朝ともなれば、公園には大型犬から小型犬、たまにゾウガメなど、まるで動物園のような賑わいとなり、小さなバッグを提げた奥様方が子供の担任についてああだこうだと会議を重ねるのが常だった。

 その公園に、ある作家の男がベンチに座って唸っていた。その男は、専業作家と言われる部類の中でもそこそこ稼いでいる作家の一人で、昨年近くに念願のマイホームを得たばかりだった。しかし、どうにも顔が浮かないのはこの場にいる自分の場違い感のせいである。四十近くで未だに独身の男が、創作の息抜きに訪れる公園にしてはあまりにも華々しいというか、学生時代にイケてる女子たちを避けるように生活していた自分の肩身の狭さが蘇ってくるような思いだった。

 ここはやめて違う場所を探すしかないか、と作家が諦めかけていると、誰かが話しかける声が聞こえた。

「また物書きですか?」

 作家が顔を上げると、自分と同い年程度の男が一匹の犬を連れてそこに立っていた。作家はこの男に見覚えがある。前にこの公園に来たときに知り合った男で、名前は確か犬山といったはずだ。犬山は上下とも紺色のジャージ姿で、くしゃっと笑うと皺が深く刻まれ、荒れて乾いた質感の肌が寒さで赤らんでいる様子からは、この界隈に住む人々の醸し出す雰囲気というものが全く感じられなかったが、それがむしろ作家の眼には好意的に映った。

「まあそんなところです」

 作家が犬山に何を話そうかと思案していると、彼の連れている犬が気にかかった。

「前に連れてたのはチワワじゃなかったでしたっけ?」

 犬山と一緒にその場にいたのは柴犬だった。一般的な、赤柴と呼ばれる茶色の毛並みをした犬と違い、その犬は黒い色付きをしている。それなりに歳を重ねているのか、しっかりとした体躯と落ち着きを備えていた。

「今日は返しに行くんです」

「返す?」

「ええ、迷子の犬を飼い主のところに返しに行くんです」

 ほう、と作家は感心した。と同時に強く興味を惹かれた。男には作家を生業としているうちに、物語がありそうなものに反応するセンサーが自然と身についてしまっている。

「それはきっと飼い主さんも喜ばれますね」

「だといいんですけどね」

「そりゃあ喜ぶに決まってるじゃないですか」と言葉では平静を装いながら、作家の中では興味が次から次に湧いてきて、なぜ飼い主は喜ばないのかと前のめりに尋問したくなる気持ちを必死に押さえつけていた。小説の題材にするために話を引き出しているとバレてしまえば、話すのをためらってしまう人もいるし、話を脚色してしまう人もいるということを作家は経験から知っている。しかし犬山は、そんな作家の思惑など気付かずに話を続けた。

「多いんですよ、こういうこと。なんか僕の家は特殊みたいで・・・」

 作家の眉がピクリと動く。しかし、悟られぬように作家は何も口を挟まずに黙った。

「僕の家は迷った動物たちを呼び寄せちゃうみたいで・・・迷子の犬や猫が家に住み着く度に、元の飼い主を探して返しに行くんです。犬山っていう苗字も影響してるんですかね・・・」

 その言葉を聞くなり立ち上がって犬山の手を握った作家は、もはや思わぬ上物を競り落とした競り人のような幸福感すら感じていた。

「行きましょう!っというか、ついて行かせてください!」


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