短編小説『犬』#3(最終)


犬山がインターホンを押すと、男の声がした。すぐ行くとインターホンを切ってから、世にいる他の金持ちたちの例に漏れず、すぐとは言えないほどの時間がかかったが、作家もこのことにはもう慣れていて不快に思うことはなかった。

 大きな洋風のドアを開いて現れたのは、大柄な男だった。年齢は作家と犬山よりもひとまわり上で、ポロシャツがピンと張るほどに丸みを帯びた腹と立派に蓄えられた口髭から、アラスカの猟師かと見紛うほどの容姿をしていた。

 その大男は、犬山と作家を順に訝しげな目で見つめ、犬山の足元にいる柴犬に目を止めると、思い切り目を見張った。あまりにも突然の出来事に、声も出ないようで、ただ口を開けて立ち尽くしている。

 作家は、ほら見たかと犬山の顔を流し見た。やはり、自分の飼い犬が戻ってきて嬉しくない人間はいないのだ、と作家はドラマティックな展開を目の前にして、自身まで感動的な気分に浸っていた。きっと彼には家族がいて、子供たちも失った家族の一員の帰りをずっと待っていたのだろう。作家の妄想は増す増す膨らむばかりだった。

 しかし、そんな作家の思いを裏切るように、大男の顔が歪んでいった。歪んでいった顔は焦りに変わり、ハッと何かに気付いたかのように作家たちの方へ駆けつけてきた。

「小太郎!俺のことを覚えているか!?パパだぞ!」

 小太郎と呼ばれた柴犬の両頬を包むようにしながら、必死に語りかける様子は、再会を喜んでいるというよりも、教師が学生にタバコを持っていないか確かめているかのような圧迫感があった。

 小太郎の方はというと、やっと主人に会えたという喜びに満ちており、尻尾を必死に振り回してその喜びを大男に伝えた。

「よし、大丈夫そうだな!」

 そう大男は言うと、踵を返して家の中に走って戻ってしまった。嵐のような展開に作家は頭が追いついていかず、ただ閉まったドアを見つめることしかできない。家の中ではドタバタと、あの大男のものと思われる足音が慌ただしく響いていたが、しばらくすると再びドアが開いた。

 大男が家から出てくると、彼の後ろから黒い物体がついて来た。

 そして、その黒い物体の正体に気づくと、作家は声を失った。まさに先ほどの大男の反応と同じである。

 大男の手に持ったリードに、犬山がここまで連れてきた犬とほとんど同じ見た目をした黒い柴犬が繋がれていた。そして大男は、なおも焦りに満ちた顔つきで犬山に頼み込んだ。

「頼む!この子を受け取ってくれ!もうすぐ妻と子供が帰ってきちまうんだ!」

 大男は犬山にすがりつく様子で、大きな身体を丸めて土下座まで始める始末だった。

「うーん、そうなると・・・こちらで育てるためにかかる費用も補助していただけるということで、よろしいですか?」

「なっ!」と大男は面食らった様子だったが、「この付近での散歩もやめます」と付け足すように犬山が言うと、大男は渋々「わかった・・・あとで連絡してくれ・・・」と名刺を犬山に渡した。

 この一連のやり取りを作家は、ただ唖然として見守ることしかできず、再びドアがバタンと閉められた時にやっと意識を取り戻した。

「今回は帰れてよかったですね」

 犬山がため息とともにつぶやいた。犬山の持つリードはピンと伸ばされ、大男の家の方に向かっていた。突然飼い主に置いて行かれた犬が、後を追おうとするのは当然のことである。まさか捨てられたとは思うまい。

 元いた家へ向かおうとする犬を、犬山は引きずるように連れながら、元来た道を戻り始めた。作家はその時すでにおおよその察しはついていたが、それでも事情を犬山から聞き出してみた。

「夫の不注意だったりで飼い犬を逃してしまい、家庭の空気も不穏になったので、渋々替え玉を用意した、というところでしょうか。お金持ちだとそういうこともしやすいんでしょうね。多分、あの方は戻ってきた犬が自分のことを忘れていないか確かめていたんだと思います。新しく用意した小太郎二号もそれなりに懐いてきたので、もし自分のことを覚えていなかったらそのまま突き返そうと思っていたはずです」

 だから犬山は、動物が好きでもないにも関わらず飼っている犬や猫が多いのか、と作家は納得した。犬山の手慣れたような言い方に、思わず作家は養育費と言いながら、金持ちたちの弱みに付け込んで掠め取っているなんてこともあるのではないかと一瞬疑ったが、犬山の人の良さにそれはないだろうと思うことにした。と同時に小太郎二号と呼ばれたその犬が不憫に思えて仕方なくなった。なんて可哀想な犬なんだと、作家は大して動物好きでもないにも関わらず、深く同情していた。

 そして結局、犬山との別れ際に作家は、その犬を自分に譲ってくださいと申し出た。作家であれば、費用など受け取らずとも育てれるくらいの余裕はあったし、犬を連れていればこの界隈での場違い感も、少しは緩まるかもしれないという考えもあった。

 犬山は快く受け入れ、リードを作家に渡した。

 作家が自分の家に向けて歩き出した頃には、もう犬は元いた家に帰ろうとすることもなく、ただしきりに周りを見回しながらついてきていた。犬なんか飼ったらまた婚期が遅れる、と親に小言を言われるかもしれないが、そんなことは小さな憂慮だろう。

 元の家で大事に手入れされてきたであろう黒色の柴犬を連れて赤青白色とりどりの住宅街を歩いていると、心なしか街の中に溶け込めてきたような気分が早くもしていた。しかし、そんな気分とは別に、物珍しそうな顔で見つめてくる犬の顔を見つめながら作家はふと呟いた。

「これは小説には使えないなあ・・・」


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