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森女日記

旅から帰ると、しばらくの間悲しさが抜けない。
悲しさが助長されるから、撮った写真をまともに見られなくなる。

子どもの頃、離れたところに住む親戚の家へ泊まり、いよいよお別れが近づく車内ではずっと涙をこらえていた。

そして未だに、旅を終え帰路を走る車内では、泣いているのを悟られないようにするのに精一杯になる。

今回はその余韻がかなり深い。

昨年あたりは、旅行の計画を立てたり行く時期を決めることさえ気が進まなかった。なので泊まりの遠出は久しぶりとなった。

ガイドブックを買い、折り目をつけ、見どころの説明にラインを引き、忘れたら現地で困りそうな点は書き込んだ。

長野県は松本市、上高地。

出発前に内容を知らずに読んだ、湊かなえさんの“山女(やまおんな)日記”に描かれていたバスターミナルが目の前に。偶然と呼ぶには惜しい伏線回収だ。ただ私の目的は山登りではなく、「森籠り」だ。

生まれて初めての場所は、ガイドブックやSNSの写真・動画には収めきれないほどのスケールで迎えてくれた。
やっと、文字通りの「自然」あるいは「自然界」にめぐり逢えたのだと、衝撃に似た感激で高揚が止まらなかった。

なんと、自家用車が走っていない。
自然保護の為だと思うが、車は上高地へ向かう途中で駐車場に停め、専用のバスに乗る。
「中部山岳国立公園」との名称があり、国の天然記念物となっていることを初めて知った。車の乗り入れが限られていることは至極当然なのだと気づく。
排気ガスも殆どないため、降り立ってすぐに下界との空気の違いに体が反応した。
めちゃ澄んでる!!
意識せずとも、滞在中は細胞が常に喜んでいた。

また、一緒に行った夫に言われてはっとしたのだが、街灯が見当たらない。というかおそらくない。
公園なので、民家もスーパーもない。
明かりは宿泊施設から漏れる光のみだった。

旅の前日は台風1号の影響で大雨が続き、上高地も車両通行止めとなった。山の麓を流れる梓川の濁流がその爪痕を感じさせたが、天気は回復し青空が広がっていた。

出発前にSNSで、「ブルーアワー」という時間についての投稿を目にした。
日没から15分後あたりに、太陽の角度の関係で、空も北アルプスの山々も群青に染まる神秘的な瞬間があるのだそうだ。
上高地で見られるなんて、素敵じゃないか!

だが、19時を過ぎても外は明るい。標高1500mの地の日暮れはまだなのだろうか?思い切ってホテルのフロントへ向かう。

すると、この地の自然環境に詳しいと思われる方が対応してくださった。
結論としては、日没の時刻は過ぎていた。
では何故こんなに外が明るく見えるのかというと、松本市内のまちの灯りが、上高地にそびえる山々の稜線に反射しているからなのだそうだ。

そんなことって起きるんですか!と思わず大きめのリアクションが出る。
すると自然環境マスターの方が、更にとっておきのトリビアを教えてくださった。

上高地へ何度も訪れるようになると、天気はもとより、新月を狙って宿泊日を決める方もいらっしゃるのだという。
月明かりが最も少ない夜は、星がより鮮明に見えるからだそうだ。
なるほど!もはやプロの域ですね!!
フロントでなければリアルに膝を打ちたいほどだった。

ここでは七夕にかかわらず天の川もざらに見えますよ等、貴重なお時間を割き終始笑顔で対応してくださったお陰で、ホテルでの滞在がますます心地よいものとなった。

その後完全に夜の世界に変化した頃にホテルの玄関を抜け、目の前にある「河童橋」という吊り橋にそろそろと近づく。
見上げると、いや見上げるまでもなく、目を凝らすまでもなく、空にはこれまでに見たことのないほどの、大粒の星たちが瞬いていた。

星ってこんなに存在するんだ!色も同じじゃないんだ!すごいな地球、いや宇宙か!

360度のスタービューの中でこの程度の感想と語彙しか出ないことにもどかしさを抱きつつも、その場を離れがたくなるような時間を夫と過ごす。
近隣の宿泊施設に備え付けられているライブカメラに自分たちが映っていることを確認し、貸し切り状態の河童橋を降りた。

今回の滞在をより豊かなものにしてくださったのは、現地で働く方々の気さくで温かいお人柄だった。

焼岳の噴火により、一夜にして出現した「大正池」まで乗せてくださったタクシーの運転手さん。
白馬出身なので寒さにはめっぽう強く、冬でも半袖でいけるタイプで、お洒落なんて学生以来気にしなくなって農協のジャンパーを買って着てますよ、農協のは意外と高いんですよ、と、こちらがトーク番組のMCを気取れば気取るほど、到着までに次々と答えてくださった。

ホテルのレストランにて、熊に遭遇した際の驚きとともに、対処法を伝授してくださった女性スタッフの方。
実際に散策路を歩くと熊の目撃された日時が記された看板を複数目にしたし、道行く人達の多くは熊除けの鈴をリュックに下げていた。

そのスタッフさんからは、「ここと北海道でしか見られない、エゾムラサキを見つけてみてくださいね」と、足元に咲くとても小さな紫色の花に出会う喜びをいただいた。

翌朝の朝食時にもお会いし、私たちの顔を覚えていてくださったことがとても嬉しく、ほっとする瞬間であった。
ピンとした山特有の冷たい空気の中、テラス席で頂いたパンプキンスープはカップ丸ごと秒で冷めていて笑った。

朝露が葉の上で宝石のように輝く向こうには、前日の茶色く濁った色から様変わりした、エメラルドグリーンの梓川。
ふと視線を上に向ければ、残雪の白が美しく、まるで青空に描かれた絵画のような佇まいの穂高連峰。
今でも、瞼の裏に鮮やかに蘇る。

お土産を求め、チェックアウト前に立ち寄った売店では、レジのスタッフの方と梓川の色の変化について感動を共有させていただいた。

「湧き水や伏流水の“ろ過”する力が、元の色に戻すんですよね~」
「自浄作用がすごいってことなんですね!」

自分から発せられた『自浄作用』という言葉が、何かの糸口になる予感がした。

それにしても私はよく喋った。標高が上がると、下界では発揮されない雑談力が向上されるのだろうか。

緑が萌える散策路では、年齢性別国籍の関わりなく、挨拶を交わしたことが印象深い。海外の方から日本語で「こんにちは」と笑顔を向けていただき、気持ちがとてもほっこりとした。

狭い道を譲り合うのは当然で、ごみなどひとつも落ちていない。
野生のニホンザルが道を渡ったり、毛づくろいをし合う様子を、触れることなく微笑ましく見守る(赤ちゃんザルの顔、めちゃ可愛かったなぁ)。

誰かが呼びかけるわけでもないのに、そっと確かに広がる思いやり。
美しい大自然の前では、人間の傲慢さも薄れるのだろうか。
虫に懐かれることさえステイタスに思えてくるから不思議。

全ての生物が呼吸をしている世界に、人間が「お邪魔させてもらっている」という意識が芽生える。

だが私は帰宅後すぐ、持ち前の短気を夫にぶちまけてしまった。
山での朗らかなマインドを持ち帰ることができなかった自分にがっかりしたのである。

ただ、あの2日間のお陰で、心が幾分か軽くなったような気がしている。
(数週間後に読み返してみて、残念な気持ちにならないことを祈る!!)

立ち枯れの木々が、時の流れを忘れさせるような佇まいを見せていた湿原。
水底の景色までくっきりと映し出す、数々の清流。
森に落ちる木漏れ日。
木の幹と葉の香り。
高らかに響く、鳥たちの歌声。
流れの強さによって変わる水の音。
明神の休憩処で頂いたおしるこの、塩味の効いた汁が体に沁みた瞬間。
触ったらすべすべで驚いた、白樺の幹。
体験や感激を共にできる相手がいてくれること。

梓川はときに渦を巻き、またある時は分かれ道をつくり、再びひとつになって流れていた。

悩んでも、迷っても、遠回りをしても、辿り着くべき未来へいつかは繋がる。
だから抗わず、流れ流れていけばいい。
嵐で心の色がくすんでも、経験という伏流水がきっと助けてくれる。
そして、大事にしたい新たな価値観が湧き上がってくる。

自浄作用が利かないなら、遠く抱かれた山々を見上げてみよう。
誰かの知恵に助けてもらうことは悪いことじゃない。
そうして、大切な人の優しさに気づくのだから。

ありのままの姿で迎えてくれた上高地の自然は、
生きるうえで心は代謝を繰り返すものだ、と教えてくれた。
諸行無常のなかで、コントロールできるものはごく僅かだと。

そして、今自分が感じている「日常」と、まだ見ぬ地に流れる「日常」は同じ時間で繋がっていて、それらが混ざり合った瞬間に「旅」が始まるのだ、と。

またいつか、どこかに流れる日常を、まっさらな気持ちで受け止めたい。
そのときのために、「今」を粛々と紡いでいきたい。

あっ、上高地へもぜひ再訪したい。
やりたいことはもう頭に浮かんでる。

自宅へ到着するころ、サザンオールスターズの“アロエ”が流れる。
2年前の三島・熱海ひとり旅の前日にじっくりと嚙み締めた曲だ。
点と点が繋がって、なんだか出口が見えたような気がした。

どこへ向かうかは、わからないけれど。

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