見出し画像

幽霊を見た

 少し前、僕は幽霊を見た。


 その日の晩、なぜか寝付けなかった。ベッドでゴロゴロしながら動画を眺めても、音楽を聴いても、寝返りをうっても、トイレに行っても、水を飲んでも、ダメだった。色々試しているうちに、気づけばもう2時を過ぎていた。

 しょうがないので、散歩に出ることにした。軽く運動することで寝られるのではないかと思ったのだ。

 部屋着のままサンダルを履いて家を出て、フラフラと歩きはじめた。家は住宅街にあり、夜はかなり静かだ。しばらく歩いたが、人ひとりともすれ違わなかった。こう音もなく誰もいないと、ふとした拍子に別の世界に来てしまい、自分だけが一人ポツンと存在しているかのように感じてしまう。

 そんなどうでもいいことをぼーっと考えながら、角を曲がった。すると、視界に何かが飛び込んできた。

 街灯にぼんやりと照らされた、白と黒の塊。

 歩みは止まった。途端に心拍数が上がる。ついさっきまで、自分一人だと思っていたこの夜道に、何かがいる……。

 霊感もないのに幽霊を見てしまった……いやぁこういう時って意外と冷静なもんだなぁ。こういうなんでもない夜に見るんだなぁ。なんて思ったが、こんな平和な住宅街に幽霊がいるわけもない。僕はソレにゆっくりと近づきながら、じっと暗闇に目を凝らした。

 よくよく見てみると、どうやら、女性が道端に座り込んでいるだけだった。

 やっぱり幽霊じゃなかった。あーびっくりした。その女性は、大きなフードのついた白のパーカーを着て、長めの黒髪で、黒のスキニーパンツを履いているように見える。

 薄暗い夜道というシチュエーションで、急に白黒の何かが見えたので、白装束に長く黒髪を垂らした、あの古典的な幽霊のイメージが頭の中に出てきてしまったのだろう。

 今度は、なんでこんな時間に女性が路上に座り込んでいるのかが気になった。酔いつぶれてるのかとも思ったが、このご時世だし、周辺に飲食店はない。もしかすると、何らかの理由で家を追い出されたとか、鍵を無くしてしまってうなだれているとか?

 困っていたらかわいそうだし、場合によっては警察を呼んであげたほうがよいこともあるかもしれない。ちょっと声をかけてみたほうがいいのかな、と少し警戒しながら歩みを進めた。

 しかし、僕はすぐに足を止めた。

 あまりの衝撃に、一瞬、何が起きたかわからなかった。

 なんと、道端にうずくまっていたのは、女性ではなく、スクーターだった。ボディが白で、シートが黒の、小型のスクーター。道端に駐車された白黒のスクーターが、そこにただ静かに佇んでいるだけだった。

 全く意味がわからない。頑張って理解しようとすれば、後ろから見たボディの白がパーカーに、シートやタイヤの黒が髪やスキニーに見えていたということなのか……? 薄目で見てみたり、少し離れて改めて確認してみたが、どこからどう見ても、ただのスクーターだ。

 幽霊よりも何よりも、僕はこの壮絶な勘違いに、恐怖を覚えた。

 なにせ、幽霊を見たと勘違いして、さらに女性が座り込んでいると勘違いして、実際には駐車されたスクーターを見ていただけだったのだから。死んでいる幽霊でも、生きている人間でもなく、ただ止まったスクーターを相手に、夜道で一人、脳をフル回転させて勘違いを繰り広げていたのだ……。急に血の気が引いていくのを感じ、そのまま数分間、その場に立ち尽くしてしまった。

 時間帯による眠気のせいなんだろうか。慣れない人助けをして良い人ぶろうと浮足立った気持ちがそうさせたのか。それとも最近落ちてきた視力のせいなのか……。いくつか言い訳を考えてみたが、いずれにしても、脳が認識した内容と客観的な事実で、こんなにも違うことがあるんだと、本当に驚いた。

 脳は、勘違いや思い込みによって、意外に雑な処理をするものなのかもしれない。


 そういえば、昔、友達とビールの飲み比べをしたことを思い出した。

 宅飲みをしようと買い出しに行った際、割とビール好きな友達が「ビールの味の違いなら絶対判別できる。飲み比べたら100パーセント当てられる自信がある」と言い出した。それを言うなら僕もそこそこ自信があったので、じゃあ対決してみようということになった。

 8種類ほど、有名どころや若干マイナーなものまで、様々な種類の缶ビールを買ってきた。その中には発泡酒もいくつか入れておいた。ビール同士で間違えるならまだしも、発泡酒とビールで勘違いするようだと、ちょっと恥ずかしいよな、とお互いに牽制していた。

 初めにそれぞれのビールを少し飲み、味を覚える。改めてそのように飲んでみると、結構しっかりと違いを感じられたので、これは楽勝だなと思った。そして、缶から紙コップに移し替え、見えない位置に銘柄を書き、いざ飲み比べをしてみた。

 やはりどれも味は違う。明確にこの種類とわかるものもあれば、多少怪しいものもあったが、時には消去法も使いつつ、ある程度自信を持って全銘柄をメモした。お互いの回答が出揃い、正解を見てみる。

 結果は悲惨なものだった。なんと1種類しか当たっていなかった。

 しかも発泡酒とビールの分類すら間違っていた。あの謎の自信は何だったのか。確かに感じていたはずの味の違いは一体何だったのか。その瞬間、自分のビール認識能力、ひいては嗅覚・味覚に対する自信は、完全に打ち砕かれた。ちなみに、そのビール好きな友達も2種類しか合っておらず、似たようなものだった。もう飲み慣れたはずのビールを、二人で苦い顔をしながらすすった。

 それ以来、僕は基本、発泡酒を買うようになった。どうせそこまで味の違いはわからないんだし。ビールよりちょっと安いし。気分的にビールを買うこともあるが、あの日から『違いを感じ取れない』という十字架を背負っていることは忘れないようにしている。


 どうやら脳は、勘違いや思い込みをするものらしい。

 もしかしたら、他にもずっと勘違いをし続けていることがあるかもしれない。いや、あえて答え合わせをしなければ、勘違いしっぱなしのことの方が多いだろう。だったら、僕はあえてそのままにしておくのもアリだと思った。

 今日ここで、幽霊を見た。そういうことにしておこう。


 なんだか急に飲みたくなった発泡酒を買いに、僕は静かに佇むスクーターの横を通り過ぎ、散歩を続けたのだった。



 

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

次回の更新予定は未定です。 いただいたサポートは、執筆活動に欠かせない糖分の購入費用に充てさせていただきます。🍰🍫🍩