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高畑勲監督を偲び作品を振り返る 「セロ弾きのゴーシュ」

 高畑勲監督の訃報を知ったのはネットニュースだった。深夜にも関わらず大声で「えーっ」と叫んでいた。後に続く言葉があるとすると「だって、なぜ」だったと思う。もう一作品、観たいというのは叶わぬ願いだったかもしれないが、せめて生きていて欲しいと思った。後に「平家物語」の短編をスタジオポノックで作ろうしていたと知り、完成していれば、どんな作品になっていたかと思いを馳せる。

 それでは一ファンとして、高畑勲監督の作品を振り返ってみようと思う。

セロ弾きのゴーシュ
原作は「セロ弾きのゴーシュ」宮沢賢治の童話 1934年

1982年 映画『セロ弾きのゴーシュ』
高畑勲が監督しオープロダクションが5年の歳月をかけて完成させた自主制作作品

声の出演:佐々木秀樹(ゴーシュ)、雨森雅司(楽長)、白石冬美(ねこ)、肝付兼太(かっこう)、高橋和枝(子だぬき)、よこざわけい子(野ねずみの子・ヴィオラの娘)、高村章子(野ねずみの母)、槐柳二(コンサートマスター)、矢田耕司(司会者)、千葉順二(チェロ主席)、三橋洋一(Aさん)、峰あつ子(団員)、横尾三郎(団員)

出展 セロ弾きのゴーシュ - Wikipedia

 気にはなっていたが、中々見ることの出来なかった作品。上映当時は近所の映画館は旧作を三本立て上映などしていて、新作を見る機会はなかった。地方都市の映画館に行くには、当時は子供だったし、時間もお金もかかり難しかった。そもそも主要都市でしか上映していなかったのかもしれない。なぜ、知っているのかといえば、アニメ雑誌で記事や絵をよく見かけていたからだ。あと宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」というタイトルは原作本を読んでいなくても知っていた。多分、きちんと観たのはDVDが発売されてからだろう。今見返すと、声優さんたちの声が懐かしい。子供の頃、慣れ親しんだアニメでよく聞いた声だ。

注意 以降ストーリーのネタバレがあります。

素人ですが、主にアニメーションの表現に焦点をあてています。

 風景、虫、動物、風になびく草花などが、よく描かれている。冒頭ゴーシュ宅にやって来る三毛猫の動きが素晴らしい。仔猫から成猫になる成長過程の、走りがすこし危なっかしい所とか、身軽な動きとか。
 
 音楽と映像のコラボレーション。楽器を演奏するシーンがあるが、おそらくかなり取材したと思う。指揮者の動きもしかり。もちろん、表現としてデフォルメしている部分はあるだろうが、嘘っぽさがない出来になっている。一方で幻想的で絵本を見ているような表現もある。ゴーシュが演奏でヘマをすると、指揮者はイライラを募らせる。また不機嫌な顔をする和装の女性バイオリニストがその場の雰囲気を伝える。ゴーシュのチェロの弦(コード)を押さえる指の位置は、おそらく曲に合っているのであろう。

 キャラクターにわずかに影として斜線を入れているのは、ペン画らしさを出したかったからなのか。「世界名作劇場」(1969年「ムーミン」以後の作品)でもシリアスなシーンではあったし、東京ムービー(東京ムービー新社。現トムス・エンタテインメント)作品にもよくあった。

 古くは「The first cartoon "Substance and Shadow"(1843) by John Leech」でも斜線の影は見られる。
"Substance and Shadow" (Punch, 1843)

 バンドデシネ作家のメビウスも影の表現として斜線を取り入れていた。日本のアニメだと、1968年「巨人の星」のような劇画タッチの原作がアニメ化してからではないかと考える。

 演奏シーンでは、あまり見なくなった二枚の画像を重ねて半透明に合成する「アルファブレンド」も音楽と共に効果的に使われている。演奏後、指揮者はゴーシュに「いつでも君だけ解けた靴の紐を引きずってみんなの後を付いて歩くようなんだ」と言う。ゴーシュは左足の靴の紐が解けているのを引っ込め隠そうとする。解散後、他の楽団員に食事を誘われた和装の女性バイオリニストが、演奏のことで落ち込んでいるゴーシュを気に掛けるシーンがある。

 夜、徒歩で帰宅するゴーシュが片手に持ったチェロを重そうに持ち上げ、持ち直すシーンがあるが、もう一息で家に着くという演出でキャラクターに演技させている。家に着きチェロの覆いの布をほどくとフランスパンと包み紙(おそらく菓子パン)が落ちてくる。こういう生活感のあるシーンを織り交ぜていき、作品に奥行きを感じさせてくれる。その後、柄杓で水を飲むのだが勢いよく飲み、「あっ」と息をもらす所など表現が細かい。自宅でチェロの演奏をするゴーシュの手さばき、体の揺れ、髪をかきあげる仕草を入れるなどリアルである。音に合わせコップも振動して揺れる。音に合わせた画面のズームイン、ズームアウト。

 家に三毛猫がやってきて、ゴーシュは演奏前に立て付けの悪い窓を閉める。耳栓をして演奏を始めるゴーシュ、三毛猫のリクエスト曲「トロイメライ」ではなく「インドのとらがり」を弾いた。そのメロディアスではない打音に体調を崩す猫の表現。体に電気が走るように苦しみ、ゴーシュへの反撃を試みようとするが、体が言うことを利かない。誇張した動きもあるけれど、猫はこう動くというリアルさも描かれている。ゴーシュは招かざる客に意地悪をするが、パタンと三毛猫に倒れ込まれた時、心配する素振りも見せる。そして無事に去っていくのを見ると高笑い。このシーンは個人的には感情移入しにくいのだけど、ゴーシュの演奏が上手くいかない、心の荒れ模様を表しているのかもしれない。

 翌日の朝、家の周りをスズメが二羽飛んでいる。畑に水を撒くのだけれど、バケツを重たそうに持つゴーシュ、また斜めになっているトマトの茎を直したり、キャベツの虫を取る様子など日常の表現に余念はない。空バケツを持って家に入り戸を閉めるとスズメが庭に降り立ち、なにかをついばみ、ゴーシュがチェロを持って戸を開け家から出るとスズメが飛び立つ。音楽と相まってテンポがいい。

 夕方、演奏の練習を終え、崖の上でアンパンをパクついているゴーシュ。いかにもパクついているという顔を表現。急いで食べているので少し息が詰まる感じとか。空にはトンビが輪を描いている、少しのどかな描写。ひぐらしが鳴いている。

 劇場前、輪転がしをする男の子、横切る車(おそらくフォード・モデルT)
ディズニーのようなアニメの活動写真(無声映画)の演奏を仕事でするゴーシュ所属の楽団。ディズニーのようなアニメはとてもよく動いている。映画館にねずみが出るシーンがあるが観客の慌て方がリアル。

 夜にカッコウの来客、羽ばたいている様子や鳥独特の体のぴょんと跳ねた後の方向転換など鳥らしい。カッコウとの演奏後、ゴーシュは夜も明けたし、カッコウに帰れという。カッコウはガラス窓から出ようと窓に激突、カッコウがヨレヨレになる様がよく描けていると思う。そして、カッコウを帰らせるため、立て付けの悪い窓を開けようとするが開かない。(三毛猫のシーンの立て付けの悪い窓は伏線になっていたのだ) 思い余ってゴーシュは羽ばたくカッコウのため窓を蹴破る。その後あくびをして床で寝てしまい、夕方から翌昼への時間の経過を背景と寝相の変わっているゴーシュで描写。

 遅刻したゴーシュは麦畑をよぎる馬車に乗せてもらう。その馬がおそらく日本在来馬。演奏を練習する学校に着くが指揮者とぶつかり相手の弁当と楽譜を落としてしまう。その時のばつの悪いゴーシュの表情。遅れて席に着くと準備にもたつき、また和装の女性バイオリニストに怪訝な表情をされてしまう。指揮者に「リズムに乗って」と注意されるゴーシュ。

 夜になり食事の支度をしていると、また来客が来る。子狸が音楽を習いに来るが、リアルというよりは擬人化されていて、とても可愛い。小さい子狸はゴーシュの靴を台代わりにする。バチだけ持参した子狸はゴーシュのセロを叩いて音を出す。二人で「ゆかいな馬車屋」という曲を奏でる。子狸のバチさばきは動画でも正しくリズムを刻む。演奏後、子狸から二番目の弦がおかしいと指摘をされる。その微妙な音のおかしさまで音で表現しているのかどうかは分からなかった。夜が明けて急いで帰るため走り出す子狸の動きだけ狸っぽい。朴訥で礼儀正しい子狸は愛らしい。

 夜らしい月明かりに照らされた風景、草花が美しい。また夜に、ねずみの母子がやってくる。つい先行してしまう子ねずみを引き戻す、母ねずみのシーンは子供というものを上手く表現している。ねずみの母の回想でチェロの音色で体調を良くし、スキップで床下から帰る子リスは可愛い。チェロの音、振動が按摩代わりとなって血の巡りが良くなり体調も良くなるという理屈らしい。ゴーシュによってチェロの中へ入れられる子ねずみ。一緒に入りたいが体が大きくて入れない母ねずみの母心。演奏中、鼻をひくひくさせている子ねずみはリアルで夢見心地だ。具合のよくなった子ねずみは二足で元気に歩き回る。この感じはトトロのようだ。気を良くしたゴーシュは母子ねずみにあんぱんの端っこをあげた。床に置くときも、母ねずみが持ち去る時もパンくずが見て取れる。その後ゴーシュの家からたくさんの動物、鳥たちが去る。皆癒されに来ていたのだろうか。

 場面は市民音楽会の演奏。ゴーシュを含め正装している。演奏は大成功、和装の女性バイオリニストも微笑み、観客の拍手喝采の中、指揮者はトイレの窓辺に行き、笑い泣き何度も頷き感動に身もだえする。ここの指揮者の表現。観客からのアンコールの中、白羽の矢が立ったのはゴーシュ、まわりも納得する。ゴーシュは無理やり壇上に立たされ戸惑いを隠せない。舞台下手では涙ぐむ女性バイオリニストもいる。馬鹿にされたと思ったゴーシュはあの三毛猫をおかしくした「インドのとらがり」を演奏する。

 演奏後、ゴーシュの髪が逆立ち鼻を広げて目が輝き全身で喜びを表すのだが、後の宮崎駿アニメでよく見かける。これは同じ仕事場のアニメーターの共有の表現なのだろうか。一楽団員が喜ぶ際、太鼓のバチを叩く真似をする。喜びを隠せないリアルな喜び方だ。

 反省会(祝勝会)で飲み屋の障子越しになびく風鈴も良い。年配の楽団員は一気飲みする若者と違って、一口二口飲んでからグラスを離し吐息をもらす。芸が細かい。窓から夕陽を眺めるゴーシュと女性バイオリニストが印象的だ。(女性バイオリニストは初めからゴーシュへ恋心を寄せていたのかもしれない)

 ゴーシュが帰宅する夕焼けの中、飛び去るカッコウ二羽の飛び上がり滑空する軌道が実に本物っぽい。(調べたらカッコウは波状飛行(上下に波打つ)ではなく直線飛行(羽ばたいて真っすぐ飛ぶ)だった)

 この作品からも解るようにアニメのキャラクターに細やかな演技をさせて
知りうる限りはデティールに凝る(デフォルメをしないということではない)
というのが高畑勲監督の作品の特徴で、表現を注視しなくても、長年の鑑賞に堪えうるクオリティだと思う。演技を端折ってもストーリーは追えるが、無駄と思えるシーンが作品に説得力を与えている。「セロ弾きのゴーシュ」は今観ると当時のアニメの表現なので古く感じるかもしれないが、原作の書かれた時代背景や当時のアニメ表現を古典として楽しんでもらえばいいと思う。


どうぞよろしくお願いします。