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小学校英語の評価に断固反対の理由

 私は小学校英語の評価に断固反対する。
小学校の英語指導支援をしていて、最近一番聞かれることなので一緒に考えてみたりもするが、メリットが見つからない。先生方には「前向きな評価のみをお願いします」と伝えて、後は反対することを周りの方々に伝えるしかない。文科省に届け! 

 まずは生徒サイド。今既に小学校英語教育によって英語嫌いになっている子が続々と生まれている。方法や軸をしっかり定めて、それを適正に指導出来る人を育てないと、今後もっと広がっていくと確信している。

小学生の現状(2020年春時点)

 今現在、誰からも評価されていないのに「俺は英語無理」「私に英語は向かない」という小学生。理由を聞くと、「学校でちゃんと聞き取れなかったから」「ALTが何言っとるか全然わからんかったから」と、ちゃんと子どもなりに理由がある。その他にも「わかって当たり前のものがわからなかった」というものもあるが、そもそもその「わかって当たり前」とは誰が言ったものか。
 小学校英語の鍵は「わからなくても大丈夫」と寄り添いながら進めること。英語がわかる子を伸ばす授業ではなく、わからない子が希望を持てる様な授業である必要がある。そうなると、先生方のハードルも下がるのではないだろうか。

児童英語教育のプロとは

 では、どんな指導が児童英語教育に必要なのか、それは以下の通りだ。

①間違いよりも出来たことに注目して一緒に喜ぶ態度
②ミスを説明して教えるのではなく、自分で気付かせる指導
③言葉を出したくなる人間関係(信頼関係)を築く力
④子どもそれぞれの成長を見て取る余裕

 ご覧の通り、英語の技術は二の次三の次。
まずご理解いただきたいのは、英語は言葉であるということ。中学英語の様にハッキリと「テストのために」指導出来るのであれば、四技能(読む・聞く・書く・話す)というカテゴリに分けて見やすい部分もあるのかも知れないし、中学生はある意味他の教科や部活等で止む無く「競争の中」に放り込まれている状態。
 しかし小学校は、まだ子どもたちに「学ぶ楽しさを伝える」希望が残されている。「英語無理」と言わせずに「僕にも出来るかも」「私も英語を話してみたい」と思うきっかけを与えるための小学校英語でないと中学に繋いでいけない。一番怖いことは「英語無理」という気持ちのまま中学校に上がることなのだから。

 そして言葉を学ぶ時のマインドとして、「安心して」「何でも話せる」状況がないと何をどんなに良い指導法で教えたところで入っていかないことは私が皆さんにお伝えしたいこと。
 「英語は得意じゃないけど」という先生が出来る指導としては、「先生も気持ちがわかるから一緒にやろうね!」という指導。
必ずしも英語が得意な先生が上からどんどん言葉を浴びせかけ、単語をたくさん覚えさせる授業で生徒は伸びる、ということはない。その授業の中ではほんの一握りの英語を習っているか塾にいっている生徒が少し良い思いをするくらいで、小学校で初めて英語に触れて「英語ってなんだろう」とワクワクドキドキしている子は、英語を遠い存在に感じてしまうだろう。

 日本語に初めて触れた時のような「優しさ」や「温もり」、「寄り添い」を経て人はその言葉を体得していくもの。その最初が小学校ならば、その指導は「優しさ」「温もり」「寄り添い」を兼ね備えている必要がある。それを無視して闇雲に英語の技術指導だけをしたところで、将来的に英語を使いこなせるマインドを維持出来る子どもは育たない。
 評価はその「技術指導」のみに拍車をかける可能性があることを、私は危惧している。評価をする側の指導者にかかったプレッシャーは必ず子どもたちに伝わる。過度のプレッシャーの中で、言葉の教育は成り立たない。

そもそも小学校の英語評価って何?(2020年春時点)

 本年度からスタートする新学習指導要領の中で、子どもたちがつけるべき能力が3つの柱で表されている。

①知識・技能
②思考力・判断力・表現力 等
③学びに向かう力・人間性 等

 評価もこの3点を柱にされるのだが、さすがに③の人間性を先生が評価するというのはあんまりなので、「主体的に学習に取り組む態度」として評価されるという。

 他の教科の様に学びの結果がハッキリ見えるものならまだしも、英語を言葉やコミュニケーションツールとして学ぶ過程の中では、この3つの柱の内②と③に関しては、その内容全体がその子自身の本質と繋がる。
そこを評価するというのだから、先生方からのヒアリングの中でも「自信がない」という声が大きく聞こえることも当然のことだと思う。

評価がもたらすこと

 保護者として想像してみると、きっと保護者は評価で子どもの実力を見る。もしそこで少しでも低い評価がされていた場合はすぐに塾や英語教室を考えるだろう。私みたいな民間英語教室にはありがたい話かも知れないけれど。
 私は小学校英語が始まった時「みんなに平等に英語を学ぶ機会がある」と、素直に嬉しく思った。国民全員が英語を使える必要はないし、使えなくても日本で生きていくことは出来る。でも英語教室に通わずとも、英語に少しでも触れておけば将来何かで必要になった時や興味を持った時に「やってみようかな」という気にはなるだろう。英語は確実にその人の目を世界に開く。そんなきっかけを学校で平等に与えられるなんて素敵だ、と思っていた。
 だからこそ、小学校英語が「英語に苦手意識を持つ」機会になってしまうと悲しいのだ。そして、そんな苦手意識でいっぱいになった子はどうするかというと、英語教室にも足が向かない。
 先生から「君の英語はもう一つ」「積極性が足りない」「声がもう少し大きければ」と言われた子は、こう言うだろう。

 「そもそも僕に英語は向かない」

 そして親がいくら引っ張って英語教室に通わせようとしても英語には寄り付かなくなるのだ。そんな子が中学英語への心の準備をどうするのか、考えただけでもゾッとする。

海外から見た日本の評価基準

 小学校勤務時に一緒に働いていたアメリカ人のALTが「図工の鑑賞や音楽の鑑賞をどうやって評価するのか」と真顔で尋ねてきたことがある。
日本人の私にとってはごく当たり前のことで不思議だと思ったこともなかったが、確かにそれをどう人が判断するのか。興味深いと感じた。
そもそも「感じ方」は人それぞれで、表現も人それぞれ。それをどうやって一つの基準で見るのだろう。美術や音楽でさえそうなのに、英語の感じ方や表現をどう見るのだろうか。
 ある学校の先生が「英語の表現力なんてわかりません」と素直に言われたのが心に残っている。

 そこにある「態度が良い、表現が良い、というのはこの基準」という統一のこそが、日本の教育が今改革すべき点ではないかと強く思う。むしろこれからの教育は「人それぞれの感じ方や表現があって良い」ということを伝えるべきなのでは。

小学校英語評価への意識

 そこで皆さんに問いたい。子どもたちの「人間性」に繋がる評価をどう思われるだろうか。私がそれを尋ねた先生方の多くが「自分が知っている側面だけでの評価は怖い」と言われる。保護者や子どもたち自身の今後の道標にもなるであろう評価をここで自分がつけても良いのだろうか、という不安。
 
 子どもの頃大人に言われた一言が今も心に突き刺さっている、という経験がある方は多いだろう。大人にとっては何気ない一言だったかも知れないが、子どもにとっては人生を左右する程大きな言葉になり得る。
私は普段それを絶対に忘れない様に、常に自分に言い聞かせて子どもたちと向き合っている。子どもたちには希望を繋ぎたい。
 壁にぶち当たった時に耐え得る子、他の道を探す子のエネルギーはどこから生まれてくるか。それは我慢に慣れることではない。低い評価をたくさん与えられ「なにくそ」と思う気持ちではない。成長過程で出会った素敵な言葉たち。寄り添ってくれる誰か。その思い出を拾い集めて前を向くための糧とするのだ。

 日本の教育はトップダウンで、決められたことは絶対だ。
教育システムへの違和感を学校の先生や自治体の教育委員会に言ったところで、それは変わらない。英語教育に関しては、先生方の中にも変えたいという意見が多数あるのに変わっていない。大学入試制度改革まで巻き込んで、より混乱を深めていることで、教育に詳しくない方もハッキリわかるだろう。

 政治はいろいろな意味で「お客様ありき」である。
そのお客様である有権者、国民が声を上げていかない限りは大昔から続いてきたものや、誰かにとっては有効でも誰かにとって有害なアイデアやシステムも変わらない。
 私は一教育者として、一親として、一国民として日本の政治や教育を監視していたいと思う。まずは知ること。黙って従う前にその目的を一緒に考えること。教育者だけではなく、親や地域も一緒に教育を考えていきたい。

 子どもたちに希望を与えるのが、教育。

 教育現場の方々が心豊かに平安の中で子どもたちと向き合えることが最高の教育環境。それを守るために伝え、声をあげていきたい。

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