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ぼくたちは日常の外に境界線を引かなければいけない

 10月のなかごろ、体調が紙飛行機みたいに落ちていった。

 直接のきっかけは、10月に入ってから仕事がちょっと忙しくなったことで、初めて作る仕様の本、次から次へと見つかる想定していなかった作業、発覚するミス、溜まっていく未読の原稿にてんてこ舞いになって、あっという間にグロッキーになった。

 お腹の持病が悪化して、一日に二ケタ回トイレに駆け込み、電車に乗るのが怖くなった。これはまずい、と思って、数週間、土日はひたすら寝た。朝起きてご飯を食べて、寝て、昼起きてご飯を食べて、少しだけスマホをいじってまた寝て、夜ご飯を食べて少しテレビを見てまた寝る週末。今は4キロほど走りに行ける程度には回復した。

 あの程度、ちょっと忙しくなったくらいでやられてしまうのは、我ながら情けないと思うのだけれど、今回のことは、少し事情が違うと思っていて。

 たぶん、体調よりだいぶ先に、メンタルがやられていた。

 夏が明けたくらいから、退勤後の夜も、週末も、常に社用携帯をチェックするようになった。本を読んでいても、漫画を読んでいても、テレビを見ていても、その中に仕事に関連するものを見つけては「あそこはあの漢字でよかったのか」「あの表現は間違っていなかったか」「あのイラストに問題はなかったか」と仕事のことが不安になったりもした。夜ベッドに入って、意識がとぶ直前に、それまで気にしていなかった仕事の心配事が急に頭をかすめて、目が覚めたことも一、二度じゃない。

 10月に少し忙しくなったことは体調を崩すきっかけに過ぎなくて、たぶんそのころには既に、だいぶガタが来ていたんだと思う。

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 このコロナ禍の中、社会全体で、メンタルを崩す人が増えていて、たぶんぼくもそのうちの一人で。(軽い方だとは思うけれど。)

 3月末から自宅勤務になって、4月、5月くらいから、違和感はあった。仕事が終わっても、切り替えが上手くできない。夕飯を食べていても、テレビを見ていても、寝る直前も、仕事のことが気になる。ちょっと前まで、自分は在宅勤務が向いている方だろうと信じて疑っていなかったのに、いざやってみると、笑ってしまうくらい下手くそだった。

 じゃあ、切り替えが上手くできないのはどうしてだったかというと、一つの原因は、通勤がなくなったことだと思っている。

 通勤は、時間的にも、空間的にも、仕事とそれ以外を区切る、強力な「境界」になっていた。

 仕事が自宅勤務になり、通勤がなくなり、仕事とそれ以外の時間の境界がなくなる。朝の時間と、仕事の時間、それに夜の時間が、はっきりと区切られることなく、グラデーションのように溶け合って、どろっとつながる。

 それに加えて、緊急事態宣言が出されて外出自粛が求められて、週末も家にいるようになる。家は、休息の場と、遊びの場と、職場が、境界なく混ざり合ったところになる。

 そして、そこは、非日常のない、生活と仕事、つまり日常しかない場所になる。

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 ぼくは、このコロナ禍の中で、日常が自分のすべてを満たしてしまったこと、非日常がなくなってしまったこと、日常を区切る境界がなくなってしまったことが、メンタルに大きな影響を与えていると思っている。

 たぶんぼくたちは、ふだん、日常の周りに境界を作っている。仕事の周りに、通勤という時間的・空間的境界を作って、平日という日常の周りに、週末という非日常のことを行う時間を作って、一年の繰り返される毎日に、夏休みや年越し、そして祭りという非日常の区切りを入れる。

 でも、このコロナ禍の中で、非日常が失われて、日常の周りの境界が失われた。境界がなくなるとどうなるか。日常の外を、意識できなくなる。

 人は、輪郭線、つまりものとそれ以外の区切り・境界線があってこそ、そのものの形と、その外側を、意識できる(ぼくたちは、地球の外は容易に想像できるけれど、宇宙の外は、想像するのが難しい)。日常の周りに境界線を引けなくなったとき、人は、その外側を意識することができなくなって、そこから逃れる術を失う。

 コロナ禍の中で、自分の世界のすべてが日常に満たされ、そしてその日常の外に境界線がなくなった。ぼくは、日常から逃れる術を失った。

 そうなってしまった中で、日常がつらくなり、そこから逃れたいと思ったら、「日常の終わり」の、「日常の果て」の境界線を引くしかなくなる。仕事を辞める。そして、もっと悲しい終わらせ方。

 そうならないために、そんな境界線を引くしかない状況にならないために、ぼくたちは、日常の終わりではなく、日常の周りに、境界線を引かなくてはいけない。非日常を、日常化させずに、自分の中に取り込まなくてはいけない。自分の世界が、日常だけに満たされないように。自分の世界の中に、日常と、非日常があるように。きっと、非日常の役目は、そういうところにある。年に一回あるハレの日、非日常の日である祭り。地元の人がそのために生きている、リオのカーニバル。オタクの祭典、コミケ。そういった、自分の日常に境界線を引いてくれる非日常を、持たなければいけない。

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 鬱々とした毎日の中で、11月のなかばごろ、やっと週末に小説を読みたいと思った。物語は、ぼくの日常に境界線を引いてくれた。物語という非日常。その夜、ぼくは、昔行った一人旅のことを思い出して、たまらなく旅行に行きたくなった。旅という非日常。物語に、旅に憧れることができて、ぼくは非日常を意識することができた。

 まだ日常の中で悪戦苦闘しているけれど、少しずつ、日常の外に境界線を引き始めている。

(余談だけれど、新型コロナウイルスは、「境界がなくなること」に、一役買ってしまっている。ウイルスは、人から人へ移る。それが、自己と他者を隔てる境界がなくなる恐怖を、知らぬ間に自己が侵食される恐怖をかきたてる。)

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