ブログ_200315_2

引っ越すことが、好きな理由

 初めて一人暮らしをしたのは、二度目の就職をしたときだった。赤羽の駅を、イトーヨーカドーがある方に出て、大通りを少し歩いてから、坂を上がったところにある小さな1Kアパート。バスタブはなくてシャワーだけ。洗面所はなくてキッチンのシンクだけ。でも、東向きで二面採光の、明るい部屋だった。

 たぶんぼくは、これからも何度も引っ越しをするし、引っ越しをしたい。きっと何かの機会に、家を買うかどうか、という選択が発生することがあると思う。たとえそこで、家を買うという選択をしたとしても、それは、そこにずっと住むという決意に基づかないはずだ。

 ぼくは、「住んだことがある町」が好きだから。ノスタルジックに思い出せるそういう町と、そこでの記憶を、増やしたいから。

*     *     *

 二度目の就職は、女子高の教員だった。大学を出て、一度目の就職をして、4年間働いてから、大学院に入りなおした、さらにそのあと。東京の北の方にある学校への就職だったから、横浜の実家からは通えず、いくつか物件を回って、赤羽の家に決めた。

 実際に引っ越したのは、初出勤の日の前日だった。今考えると、けっこうぎりぎり、だったと思う。そうなった理由は、あまり、新しい生活に乗り気ではなかったから。女子高教員は、強く望んでなったものではなかった。(物語に関わる仕事がしたくて、大学院生のときに他の新卒の子たちに混じって就活をしたけれど、出版社に入ることはできなかった。)

 さすがにその日は昼頃までにはアパートに着いて、午後に冷蔵庫や洗濯機、テレビを受け取った。4月の頭で、空はすごく晴れていて、窓を開けると日差しと風が気持ちのいい日だった。家の整理と翌日からの準備ができた夕方に、散歩に行った。近所の、静勝寺というお寺の桜が、綺麗だった。

 赤羽での新生活は、正直に言って、きつかった。女子高教員という仕事。新しい男性教員に対して向けられる、女子高生の容赦のない冷たい目。
 授業中は、まだよかった。授業をする、という目的があって、教壇に立っているから。辛いのは、学年集会や朝礼など、教員の役割が生徒の監督のとき。少しふざけている程度のことを注意なんてしたくないし、それでも他の教員に言われて注意すると、こちらに向けられる冷え切った目。
 一番嫌だったのは、副担任をやっていたクラスの担任の研究日(平日に一日休みがある)の日、自分が担任の代わりをやらなければいけない日。朝読の時間、掃除の時間、生徒の監視をしなければいけないとき。早く時間が過ぎてくれることを祈って、掃除の時間を、職員室で、廊下で、急ぎではない仕事に費やした。
 働き始めて三日で辞めることを意識して、三か月で転職活動を始めた。

 職場と家の駅が少し離れていて、よかったと思う。朝8時頃から夜8時半頃まで働いて、赤羽に戻ってくると、少し安心できた。
 イトーヨーカドーで夕飯のお惣菜や翌朝のパンを買って、そこそこ急な坂を登って家に帰って、録画していたアニメを見ながら買ってきたものを食べる。この夕飯の買い物と、それを食べながらアニメを見る時間は、数少ない一日の楽しみの一つだった。自由にテレビでアニメを見られたのは、ひとり暮らしの特権の一つだ。
 運動がほとんどできない生活で、せめて、と思って夕飯前に筋トレをしていたら、夏休み前には4キロほど痩せていた。

 少しだけ生活に慣れてきて、駅の反対側にも行くようになった。そちら側には24時間営業の西友があって、その安さと惣菜の豊富さに気付いてからは、もっぱら西友にお世話になった。
 仕事帰り、駅から西友に行く道は、ショートカットしようとすると、赤羽の歓楽街を突っ切っていくことになる。黒服のお兄さんたちに、仕事終わりに少し休んでいきませんか、などと声をかけられながら、煌々と明るい看板の中のセクシーな衣装のお姉さんを横目に見ながら、西友に行くのが、けっこう好きだった。結局そういうお店には一度も入らなかったけれども。(歓楽街の端、駅に面した通りに、18禁の本だけを扱う本屋さんがあって、どんなところなのかずっと気になっていて、そこだけは赤羽から引っ越す前日に、やっと入ってみた。)
 赤羽一番街にも行った。ごみごみしていてきれいじゃなくて、あの猥雑な感じが好きだった。お店に入らずに、よく散歩をしていた。

 たぶん、歓楽街や一番街は、「学校」という品行方正な建前で固められた場所に侵されたぼくを、中和してくれていたのだと思う。昼も夜も清く正しい場所に押し込められていたら、ぼくはもっと早く音を上げていたはずだ。

 赤羽で、最も記憶に残っている、好きだった場所の一つが、一番街の中にあるWINGという漫画喫茶だ。覚えているのは、翌日から夏休みで長期休暇に入る日、仕事が終わったあとのこと。翌日が仕事だったり、疲れ切った仕事の後だったり、なかなか何の気兼ねもなく時間の制約もなく物語に浸ることができていなかったから、その日は仕事のあと夜9時ごろお店に入って、深夜まで、漫画を読みふけった。
 そのとき読んだのは、『約束のネバーランド』だった。一話目がジャンプに載ったときから好きだったのに、コミックスが刊行されて、2巻、3巻と出ていたことにも気づかず、思い出すこともできずに春から夏休みまで暮らしていた。漫画喫茶で「話題の本」として扱われていて、少し悔しく、でもそれ以上に一気に惹きつけられて、むさぼるように読んだ。(もう一つ好きだった場所は、「さやの湯処」という温泉で、家にシャワーしかなかったぼくは、いつも行く機会をうかがっていた。)

 その後も、学校での授業がうまくいったり、学校の方針が本当に嫌になったり、生徒との関係が少し楽しくなったり、出版社への転職が決まったりした。転職してからも相変わらず(むしろ夜が遅くなったことで余計に)西友にはお世話になったし、一番街は散歩の場だったし、WINGはたまの楽しみだった。

 ぼくは、赤羽の町で、今の生活から抜け出したい、とずっと思っていた。だから、赤羽も、そこから抜け出したい町だった。そして、抜け出した町だ。

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 暮らす前の赤羽と、今の赤羽は、ぼくにとって全く違うところで、そこは、記憶が染みついた町だ。その記憶はよいものばかりではない、というよりも、むしろ苦いものが多い。

 それでも、あの町はぼくにとって大事な町になった。あの町の、そこでの生活の、懐かしさ、ノスタルジー。その気配が、そこここに漂う町。きっと、そのうち赤羽に遊びに行ったら、すごく楽しいんだと思う。

 そういうふうにあの町を、そしてそこでの生活を思い出せること自体が、自分にとって大事なものになっている。自分を形作るもの。

 こうやって思い出せる生活をいくつもしたいし、こうやって思い出せる町に、いくつも住みたい。

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