私のアンテナが錆びていた件

「最近何かいい事あった?」こう尋ねられた時、思い切り考え込んでしまった私が居た。決して私が嬉しそうにウキウキしていたからそう尋ねられたのでは無く、英語でいうならば「What's Up」。
ただ単純に「最近どうよ?」と近況を聞かれただけのこと。
だというのに、なんとまぁ「いい事かぁ…これといって…うーん…」と考えた挙句、「別に~」と会話をぶった切る回答しか思い浮かばない自分に落ち込みながらも、かろうじて「そうねぇ~」と何とか最近の出来事を話した。

私は他人様が「へぇ~!」とたまげるような奇想天外なネタをいつも持っているほど刺激的な日常は送っていない。
今日と大差ない明日が来るんだろう。これといった特別な出来事の無い「普通の日々」が過ぎていくことだろうと頭の片隅できっと思っている。多くの中高年はそうではないか。
寧ろ変化が無い事への退屈さが有難い事であるかのような気さえする。

折しも夕方、テレビのニュースで桜の開花が告げられていた。そこに映っていたのは、親子で桜の木をしげしげと眺め「あっ!!あった!!」と目をまんまるにして声を上げる子どもの姿。
インタビューでは「桜が咲いてすっごい嬉しかった!ずっときれいに咲いていて欲しい!」と濁りのない瞳をキラキラさせて、軽くジャンプさえしながらコメントをしている姿が映されていた。
私の目には咲いたという桜の花よりもはるかに美しく映った子どもの姿。
こんなに喜んでくれるなら、桜も咲き甲斐があるだろうなぁと思ったものだ。
私にとっては時期が来れば咲くであろう桜。咲いた花を見つけたとしても春が来たとは思えど、それ以上の喜びを感じられないだろう。
どこかに置き忘れた喜びの視点。なんだか情けなくも恥ずかしくもなった。

以前から思う事がある。人の記憶パターンは2通りあって、データ保存で表すならば喜びは1カ所で上書き保存、悲しみや悔しさはフォルダー内で名前をつけて個別保存という仕組みになっているのではないかと。
私も幼い頃から何度となく喜びや感動を味わう場面はあった筈だ。ニュースの子どものように咲いた花を喜んだのかもしれない。とはいえ、喜びの対象は様々な出来事にどんどん上書きされていき、喜びや感動を感知するアンテナはいつしか贅沢になっている。今はアイスクリームを食べたことでおそらく感動はしない。
一方で何十年も昔、小学生の頃友達としたケンカや誰かに謝らねばならないような出来事は個別に覚えている上に、その時のモヤモヤした気持ちさえよみがえらせることが出来てしまうから始末が悪い。

話を戻すと、友人の問いもニュースの映像も、『あなた!「当たり前」というフレーズに日々が飲み込まれてませんか~?』と見えない何かに言われたような気がしてきた。
そうだ。いい事が無いのではなくて、私が嬉しい!と感じるアンテナが錆びつき感度が鈍っているだけかもしれない。
昨日一日を振り返ってみて「何にも無かった」と言ってしまいそうだけれど、1日寝ていたわけでも、瞑想にふけっていたわけでもなく、仕事をしたり、人に会ったり、色々な事を見聞きし、食事だってしている。
初めてでも、珍しくもない1日だけど「色々やった」。
有難いな~、嬉しいな~と感じる場面はきっとあった。

つまらないと感じているのに、無理やり楽しい側面を探そうというのではない。つまらないと感じたならば、それはそれで大切にしたい私の気持ち。
ただ、無味無臭・無感動になりつつあることは、日々を色あせさせてしまうような気がする。
何から始めたらいいのか分からないけど、当たり前の中に潜む感動を見逃さないように視座を高めていくことにする。


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