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『葬送のフリーレン』から考える現代の死生観

自称“にわかリトルトゥース”である私は先日のオードリー東京ドームLiveを配信にて楽しんだ。

最大の盛り上がりは、若林と”おともだち”星野源との共演パフォーマンスだった。
披露された曲の中で「クリアしたあとのRPG、クリアした後も積む経験値」という若林のラップが妙に印象に残っている。
その言葉は現在進行形でハマって観ているアニメ「葬送のフリーレン」と通じるものであり、私が年始にかけて考えたことと重なった。

年始にかけて能登半島地震、航空事故という大変な事態がおきた。同時に政治・芸能スキャンダルの情報に翻弄され、なんだか情緒が不安定になっている状態が続いていた。SNSや動画、スマホからの過剰な情報で、私の脳はまさに限界に達していた。

被災地に対しての無力感と政治への苛立ちをを感じながら、TVで浮かれたバラエティー番組を観る気が起こらない人も多くいたであろう。

そんな私の心を穏やかにさせてくれた唯一のコンテンツが「葬送のフリーレン」だ。
魔法使いフリーレンと一緒に戦った勇者たちが亡くなった後日譚から始まる斬新なストーリー。1000年以上生きるエルフという設定で、私たちの人生観や死生観を考えさせられる。エルフのゆっくりとした時間軸に身をゆだねることで心を鎮めてくれる。
登場人物たちの何気ない言葉にも思索しながら、静かな気持ちで鑑賞できる稀有な作品だ。


お寺がある街での葬送する日常

私が住んでいる街には立派なお寺がある。しかも、駅の改札を降りた目の前が寺の門である。ほぼ毎日のように葬式があり、必然と葬式が行われている様子を目にしながら帰路につくことになる。
人間関係やスマホの情報に翻弄され、頭の中が不安や怒りに苛まれながら改札を出ることがある。そんなときに葬式の看板に書いてある、まったくの他人である故人の名前が目に入ってくる。そうした瞬間に心がフッと軽くなるのを感じる。そう「人は誰でも死ぬ」という当たり前のことを思い出すからである。

また、自宅の窓からは火葬場の煙突が見える。距離にして1㎞ほどのところなので、たまに散歩で通りかかる。最初は少し怖さがあったが、火葬場は常にフル稼働していて、やはり人々が見えないだけで多くの人が死んでいると実感できる。

最近は火葬場で簡易的な葬式を行うようである。コロナ以降は葬式も簡易化が進み、そこを格差ととらえてしまうのは私が生きてる人間の考えだからであろう。死んだら格差も何もないと、あわてて考えを訂正する自分がいつもいる。

不謹慎ながら、火葬場も葬式も私にとって精神衛生上とても良い。まったくの他人である故人の名前や肩書から、その人の人生や死因を妄想しつつ、周り回って自分の生や死と向き合うことで精神が安定していく。

私という現実の「葬送するおっさん」には語るほどの物語はないし、何かを達成してもない。しかし、葬式という日常があるなかで、知らない誰かが死んでいる事実を刻みながら生活をしている。

ここからは現代の日本社会においての死について書いていきたい。

年間約150万人の多死社会

2022年の年間死亡者数が156万8961人という数字は日本の歴史という観点からみても異常な死者数である。
ベビーブーマーだった団塊の世代が老いて死んでいるという統計としての数字は当たり前のことなんだろうけど…。それにしてもこれだけの日本人が死んでいることに何か現実味がない。
数字だけでも滋賀県の人口(約140万人)より多くの人が毎年死んでいる。やはり歴史的にも異常な多死社会なのだろう。太平洋戦争の4年間の死者数310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)であり、戦死や空襲による死者と高齢化による病死や老衰死とを比べることは不謹慎であるが、死というそのものの事実だけでは戦時中よりも現代の日本では多くの人が死んでいる。

それでも都市に住んでいる私たちは死を身近に感じる機会が減っている。1980年代に小学生だった私は15棟からなる郊外の大規模マンションに住んでいた。そこには住民が使える多目的施設が併設されていて、そこでは頻繁に葬式をやっていた。というより葬式以外で使われていた記憶がないので、おそらく葬式用の施設だったのだろう。田舎の人ならば自宅での葬式が主流であっただろう。

死を隠す現代の都市機能

それにしても最近の東京などの都市にいると、異常なまでに道徳的で清潔な空間となっている。2000年代初頭までは、街に出れば嘔吐物があり、歩きタバコやツバをはいている人、ホームレスの人々も目にしていた。それが令和の時代になった現在では、それらはほぼ消えてしまっている。不潔で人に不快感を与えるものは害悪であり、不適切なモノや不穏な言動をおこす人は監視社会では排除されている。海外からの観光客にとってはビューティフルな都市なのかもしれないが、私の目からも「あまりに道徳的で清潔であらねばならない圧」を感じる。日本の都市はお金を稼ぐための機能と、その稼いだお金を物やコトに消費し快楽を得る機能、その2つの欲望に集約されている。

資本主義という経済合理性を最適化した東京という街。その都市機能は死というものを隠すことは必然である。
なぜなら人は死を意識した時点で否が応でも自分の存在や限られた時間というものを哲学的に考えてしまう。人々を生に執着させて、消費や労働、快楽のみを追求させることが資本主義という社会である。

「葬送のフリーレン」から考える死生観

私は日常の中で駅前のお寺の葬式や火葬場で死の存在を感じることで、自然と心が穏やかになると前項で書いた。アニメ「葬送のフリーレン」を鑑賞する理由も「葬送」というワードが関係してそうだ。私たち日本人は今や年間150万人を超える死者を葬送する立場である。しかし、都市機能が死者を隠して150万人もの死者たちの存在がみえない。

私はお寺と近接した生活をしているので、日々のなかで死者を実感し間接的ではあるが、ある意味において自分勝手に葬送をしている。

そんななかで気づいた点が一つある。人の一生のあらゆるイベントの中で、葬式だけは自分自身が参加できないという、これまた当たり前の話である。

「生老病死」という人間の一生の中で老いながら病みながらも自分自身を語ることができるが、死だけはそっちに逝ってしまえば語ることができない。

私個人の死生観でいうならば、死んだあとは虚無であり、自分が死んだ後の葬式はしっちゃことじゃない。しかし、生きていく人間は死んだ人を葬送していく行為は必要だと感じている。

フリーレンはエルフという特殊な設定なので1000年以上生き続けている。尽きることのない寿命の中で関わってきた人間が次々と死んでいくのを幾度となく葬送していくのである。アニメの中でフリーレンが「勇者ヒンメルならこうした」とか「こう言った」と思い返すシーンがある。これは勇者ヒンメルはフリーレンの中で生き続けているということを示唆している。

そう考えると、葬式というセレモニーは自分が死んでしまってもその葬式に最中は参列者たちが故人を思い出すことで故人は生きているとも言える。

死んでしまった後に多くの人に思い出してもらえる機会はおそらく葬式だけであろう。よほどの有名人出ない限り、死者は日々の生活で忘れ去られていく。そんな人生で最も注目を浴びる最大のイベントに死んでしまった自分自身はもはや参加できない。

生きている間にお世話になった方々にお礼をする生前葬ということをする人がいる。あれは自分の権威や影響力を感じたい傲慢な人間がするようなことのような気がするのは、私の穿った意見なのかだろうか。

世界には死体を鳥に食べさせて埋葬する鳥葬があったり、虫に食べさせたりする文化があるという。さっき私は死んだら関係ないなどと言ったが、’死んでも’鳥葬だけは嫌だ。どこの国の人でも自分の死体が毀損されることは嫌悪感があるような気がする。葬送するという行為は、死者の意思に関係なく文化や宗教観として生きていく人間のための行為なんだろう。

日本人の葬送する感覚が1番にあらわれているのが、葬式のあとの浄めの塩だろう。
葬式のような葬送する場というのは穢れの場であり、日常から切り離したいものなんだと思う。古来からの日本文化としての死生観が、日本の都市からいっそう死を遠ざけている。

フリーレンから考える人生の目的

「葬送のフリーレン」はまさに魔王を倒してクリアしたあとの長い人生をどう生きるかを考えさせてくれる作品である。

昭和生まれの我々世代は子供時代から良い大学に入って、良い会社に入るという目的が漠然とあった。私はそのミッションをなんとか及第点くらいではクリアできた。しかし、クリア後の人生も次々とミッションが課せられて今や瀕死な状態である。

老後問題や介護、さまざまなハラスメントといった複雑で難易度が高い悩みが中年以降も続いていく。とにかく社会構造や経済環境も次々と変化したなかで、個人の能力や意識を常にアップデートさせなければならない。
無理ゲーだと感じているのは自分だけではないと、SNSを眺めていると安心する自分がいる。

「人生に目的など無い」なんて斜に構えて生きていたら、あっという間に社会から爪はじきにされる。

自分の人生を顧みても「人生は目的と手段がいたちごっこしている状態が続くこと」だと考える。

例えば、良い大学や良い企業に入る目的がある。そのためには受験勉強を死ぬほど頑張るという手段が必要である。でも目的だった企業に無事に入ったとしても、営業部門に配属されれば数字をアップするためにあらゆる努力をするという手段がこれまた必要になってくる。また、年収アップのために会社内の評価をあげたいという目的があったとする。そこへ業界の再編や諸事情により転職する必要がでてきた場合、その社内の実績が今度は転職するための手段になる。

こんなふうに目的と手段がずっと入れ替わりながら、自分をアップデートしていかなければならない大変な時代である。

「今は多様性だ、自分の夢を持って、好きな人生を歩もう」というのも、自分の人生は自分で切り拓かなければいけないという、これまたしんどい時代である。

ではどうすれば良いのだろうか?

目的と手段がいたちごっこになるような生き方を少し変えていってもいいかもしれない。

つまり、AIというテクノロジーの発達により個人の技能的な部分の重要性が低くなる。人間としての思考方法、基本的なコミュケーション能力や倫理観など根本的なものさえあれば、目的と手段が一貫性があるようなキャリアじゃなくてもいいような気がする。

年を重ねたり、老いてくると自分の興味や好奇心が変わってくる。好きなものが変わっていけば、その度に目的を変えて必要な手段をとっていければ良いと考える。

また、無理やり若い人たちのプラットフォームに乗らなくても良いのではないか?ある程度AIを使いこなせれば、好きな昔のモノを再編集してリバイバルさせていくようなやり方も考えられる。

その際に現状維持か変化かという決断が必ず出てくる。そんな時は、興味と意欲があって多少の努力が必要な茨の道を私は選びたい。

フリーレンからみたら人間の人生はとにかく短い。これは私たち人間からしても真理である。予期せぬ事態や健康寿命を考えても、何かをやれる時間は私のような中年にはほとんど残されていないような気がする。人生は何かに没頭しながら機嫌よく生きていけるかが大切だと、フリーレンを観ながらしみじみと感じる。

葬送されない団塊ジュニア世代

年間150万人以上の多死社会において葬送する主役として40代50代の私たち団塊世代ジュニアである。「葬送のフリーレン」ならぬ、「葬送のおっさん」「葬送のおばさん」という現実がここ数年は続いていく。

それでは我々の世代が逆に葬送される立場になる30年後を想像するに、荒涼たる悲観的な現実が待ち受けていることだろう。

われわれ世代は就職氷河期による非正規雇用者が多い世代である。当時としては社会的に真っ当とされた結婚し次世代の子供を作るということが難しい時代であった。少子化の根本的な原因が私たち世代そのものではないがが、結果としてそう言われても何も言えない自分がいる。

あまり報道されていないが、われわれの世代には中年になっても引きこもりが多くいる。新卒採用でうまくいかず、非正規のまま心や身体を病んで中年ニートとなった人たち。これからは後期高齢者となった親の介護に奔走し親を葬送していく。

その後、年老いた団塊ジュニアは血縁もなく、会社や地域コミュニティとの断絶のなか、どうなってしまうのだろうか。葬送する役割を全うしても、自らは誰にも葬送されない境遇に、国や地方自治体が支援してくれるとは思えない。

ここからは私なりの意見を述べたいと思う。私にはパートナーはいるが、子供がいない。誰にも葬送されなくてもいいと、半ば諦念している。私たちは親世代を葬送することで人間がどのようなかたちで死にゆくのか、を体験できることを恩恵だと思いたい。葬送していくなかで、自分の死生観を考える機会であるからだ。私たちは終活なんてする必要がない。終活は自らの死を考えるといものではなく、次世代に迷惑をかけないように死んだ後のリスクを消していく作業なんだと思う。

先にも書いたとおり、自分の葬儀には死んだ自分は参加できない、という当たり前の事実を先にも触れた。相続してもらうものがなくても、ほんの少し自分が残していけるような記憶や作品みたいなモノを記録していくだけでも良いのではないか。現在はテクノロジーが発達しクラウド上で記録され、ブロックチェーンやNFTといったテクノロジーがある。何かしら生きていた証が死んだあとでも誰かの人の目に触れるかもしれない。未来の誰かと繋がれるかもしれない。

個人的な死は何もない虚無ではあるが、誰かの想念の中では死後も生き続けることができる。それは血縁や友人ではない赤の他人や未来の人たちでもかまわない。

まあ、私が死ぬころの日本は年金も国民皆保険制度も崩壊していることだろう。

先日、65歳以上の独居老人は賃貸物件を借りれないどころかアパートから追い出されている現状を特集する番組を観た。孤独死した後の始末が厄介なため、大家が老人との賃貸契約を拒否するらしい。
今後も資本主義社会が続き、そのシステムのなかで弱い人間はますます生きづらくなっていくのだろうか。

資産がない老人は施設にも入れず、孤独に苦しみながら死んでいくディストピアを想像すると生きていく気力もなくなる。国に頼ろうとは思わないが、せめて安楽死が制度としてあるような未来であってほしいと願うばかりだ。

フリーレンのように冷静な口調で、「人間の人生はままならないね。しょうがないね。」と将来老人になった私は達観できるだろうか。


葬儀の翌日の朝、寺の駐車場ではテントの撤収作業が行われいる。どこかの会社の会長さんの立派な葬式であった。私は昨日の葬儀の主役の名前が思い出そうとするも、たいていは忘れている。
『葬送のおっさん』はそんな故人とも儚いご縁があったのではないかと思いつつ、寺の脇の坂道をくだり、いつもの駅へと向かう。

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