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「スープの季節」

「お腹減った…」
 ベッドの中で子猫のような甘ったるい声がする。
 去年の夏のフェスで知り合ったミホはたまに、ふいに連絡をくれる、だいたい連絡がくる時は発情している時だ。
 ボクも嫌じゃないから彼女を受け入れる、別に彼女もボクも特定の恋人がいるわけじゃないけど何となく会って、なんとなくセックスして、何となくそのまま、付き合うわけでもなく、離れていくわけでもなく、そういう微妙でアンバランスな関係を一年くらい続けている。
 彼女の夢はお嫁さん、二十九歳、西新宿勤務の一般職OLさんにとってはとても現実的な問題なのかもしれない、適齢期とか、同期の結婚とか、出産育児とか、そういう類の重みがきっと一枚一枚重なってアラサー女子の精神を少しづつ侵食しているのかもしれない、一般的な概念や世間体というやつには何の価値もないけど、そういう空気みたいな重みが確実に人を蝕む。

「何か作ろうか?」
 ミホはお嫁さんになるのが夢のくせに料理ができない、花嫁修業のクッキング教室に週一のペースで通っているのに、彼女が暮らす下高井戸のワンルームマンションにはまな板さえなかった、だから結局ボクが料理担当になる。
「何ができる?」
 ミホもミホで料理のできない自分を知っているボクに遠慮なく甘える、まるで長年連れ添った夫婦のように遠慮なく甘える、その遠慮なさに嫌気がささないボクにも責任があるのかもしれない。
「そうね、今冷蔵庫にあるもんでだったらスープくらいかな、野菜たっぷり系とか」
「野菜いいじゃん、それ作ってよぉ」
 掛け布団を引っ張り彼女は言った。
 布団が引っ張られて隣で寝ているボクの半身が向け出る、季節は晩秋に近づいている、寒くはないが「小寒い」そんな温度にボクは起きる覚悟を決めピョンと跳ね起きる。
「ほら、そうやって勢いよく起きないの、寝起きに急に動くと良くないってママが言ってた、血圧とか脳溢血とか」
 ミホの母親は新潟で勤務医を長年やっていた人だった、とにかく健康マニアらしく、彼女もその影響か身体を思いやる発言が多くて時々うざったい、田舎のおふくろのような肉親に感じるうざさをミホに感じてしまうのは実に不思議な感覚だった。

 時計に目をやるとちょうど十四時だった。
昨晩は終電集合で渋谷のクラブで二人で朝まで踊り明かした、朝そのまま駒場にあるボクの広いだけが取り柄のボロアパートになだれ込んで、セックスをした。
 慣れたセックスだった、お互いの気持ちいいとこは知り尽くしていた、最近は避妊具を使うこともなかった。
 お互い遊び人風の風体をしていたけど、不特定多数の異性と無防備な肉体関係をもつタイプではなかったので彼女から性病をもらったことはなかった。
 多分お互いのそういう部分を理解しあっているから安心して彼女はボクをセフレとして選んだのかもしれない。
 女子校女子大育ち、地方のお嬢様、だけど少し遊びたい活発な女子のいいバランス感だったのかもしれない、ミホは賢い女性ではあった。

「あれブロッコリー嫌いだっけ?」
 キッチンからベッドのミホに話しかける。
「うーん、大好きってわけじゃないけど食べられるよ」
 ブロッコリーが嫌いだったのは前の恋人だった。
 ミホと知り合って少ししたくらいで前の恋人とは別れてしまった、前の彼女にボクは見限られてしまった。
 しょうがないと言えばしょうがない、四十歳も目前なのに若い時に獲った新人文学賞を唯一の頼りに執筆活動をしている売れない小説家、というかバイトしながら小説家を目指す浪人、誰だって未来が見えないし、パートナーとして選ばれる理由がない。
 女性は現実的だから男が夢想家であればあるほど恋だの愛だのという妄想から覚めた瞬間の方向転換の仕方は見事と言える。
 ボクと別れて数ヶ月後、前の恋人は田舎の地銀で働く同級生とデキ婚したと風の噂で聞いた。

 トマト缶にブロッコリー、たっぷりのキャベツと玉ねぎ、冷凍庫に少し前に買って凍らしておいたベーコンがあったのでそれを刻んで鍋にイン、水を四〇〇ミリリットル、コンソメの素を二個、クレイジーソルトを二振りくらい、黒胡椒を気分で、あとはいい感じに煮込むだけ、簡単で適当なトマト野菜スープのレシピと慣れたセックスはどことなく似ている。
 煮込んでいる途中でミホがベッドから起きてきて、急にキッチンで煮込むのを待っていたボクの背中に擦り寄る、本当に猫みたいな奴だ。
 背中にベッドで温まれたミホの体温が伝わる。
「お腹も減ったけどさぁ、胸のここらへんも何か空っぽになっちゃった…」
 そうミホは言うとボクを振り返させて、ボクの右手を彼女の乳房に誘導した。
 今朝、散々揉みしだいて愛撫した形の良いミホの乳房はまるで処女のようなフレッシュさを秘めていた、不思議な女だ、娼婦のように激しく求めたかと思えば時々純潔な少女のような表情で絡んでくる…。

 鍋は沸騰し熱が材料に伝わり味が染み込んでいく、このタイミングで本当ならお玉で具材をグルっと一回しするのがコツなのだが、ミホがなかなかボクの右手を彼女の乳房から離そうとしてくれない。
 柔らかく形の良い乳房を触っていたら、今朝ミホの陰部にピッタリとハマり込み摩擦させていたボクの男性自身が腫れ上がったように隆起した。
 トランクスいっちょだったので、その様子はすぐにミホにバレてしまった。
 彼女はボクの左耳に唇を近づけキスするようにつぶやいた。
「この、スケベっ」
 純潔な少女から彼女は豹変した、そして大きな声で笑いだした。
 表情が豊かで時々、外国人なんじゃないかって思うくらいオーバーな喜怒哀楽が彼女の素直さを表していた。
 ボクもきっと彼女も「きっかけ」さえあれば恋人になれるのだろう、今はただその「きっかけ」が無いだけなのだろう。
 そして、そういう確かなものに、確かな関係にならない、今のこの微妙な関係をずっと楽しんでいるのが心地良いのかもしれない。

「わあ美味しそう」
 ミホは歓喜の声をあげた。
 トマト野菜スープの仕上がりはなかなかのもので、二人して小さなちゃぶ台で少し多めのスープを貪り食べた。
 熱々のスープは本当に美味しくて、起き抜けの身体に染み渡っていく、訪れる安寧の時間とでも言うべきか。

「ベーコンがいい味出してくれてるね」
「胡椒の加減もベストじゃない?」
「野菜も柔らかくていい感じ」
「身体が本当に温まるね~」
「もう、すっかりスープの季節だね…」

 スープを食べて元気になったのかミホがどんどん活発に、お喋りになっていく。
 ボクは、その様子を見ながら柔らかい気持ちになっていく。あれ?こういう感情なんて言うんだろう?不思議な気持ちだな…。
 そう思いながらもボクは彼女に相槌を打った。
「そうだね、もうすっかりスープの季節だね…」

 優しい湯気と共に彼女との時間が切り取られた写真のように残っていく、スープの季節が二人をやはり優しく包み込んだ…。



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