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賢者のセックス / 第2章 調査計画と研究倫理 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

神様、聞いてますか。


 ソラちゃんは朝が弱いから、先に起床して部屋を暖めておくのも、朝食を準備するのも、使い魔である僕の役割になっている。

 僕は作り置きのベイクドビーンズを温めている間に焼きトマトとベーコンエッグを作って水菜を添え、トーストとミルクティーの準備をした。ベッドルームからソラちゃんが出てきたタイミングでトースターのスイッチを入れ、ティーポットにお湯を注ぐのが理想の流れだ。慎重に、丁寧に、ロイヤルなんとかという高そうなお皿にイングリッシュブレックファストを並べる。

 最後にレモンを一切れ添えたところで、パジャマ姿のソラちゃんが現れた。

 席に着いたソラちゃんは、同じロイヤルなんとかのティーカップで紅茶を飲みながら、僕の用意した朝食の上にぼーっと視線を落としている。僕は密かに緊張していた。ここでファンタジーなんとか賞の話が出るかどうかが、最初の分岐だ。変なフラグを立てないように。出来るだけいつも通りに、落ち着いて。むしろ今こそ欲しいぞ、賢者の力。ちょっと神様、聞いてますか。神様。

「私さあ……」

 僕は黙って手元のトーストを見つめている。何なんだこの緊張感は。心拍数がいつもの三割増しだ。

「やっぱりさあ……」

 やっぱり、何ですか? やっぱり小説書くの止める?

「スリップウェアの大皿が欲しいなあ」

 よっしゃあ。昨日の賢者タイムの話は忘れているみたいだ。僕はダイニングテーブルの下で、ソラちゃんに見えないように小さく拳を握った。スリップウェアが何だか知らないが、ありがとうスリップウェア。何だったら僕が買って寄贈してもいいくらいだ。

「ボーンチャイナって発明されたのが一七四八年だから、サイベルがメルガの家で食べた玉ねぎのスープって、こういうのに入ってたんじゃないはずだよね……」
「サイベルさん? 誰?」
「パトリシア・A・マキリップの『妖女サイベルの呼び声』の主人公」

 やばい。軽く話を合わせたら、いきなり直球ど真ん中のファンタジー小説らしきものを投げ込んできた。

 でも、今朝はそこまでだった。話題はファンタジー小説ではなくスリップウェアに向かい、僕はそれが釉薬をかけた昔風の陶器であること、世界中で作られているけれどもソラちゃんのイチオシはイギリスで作られるものであることを学んだ。

 いつか日本民藝館にスリップウェアを見に行こうとなったところで、ソラちゃんはスーツに着替えて出勤して行った。僕は胸の中に残っていた空気を全て吐き出した。

腹上死であった

 だが、これで終わったと思った僕は甘すぎた。単純に、平日の朝はそんな話をしている時間がないというだけだったのだ。ソラちゃんは用意周到な人だ。その次の土曜日。朝食の後片付けをしている僕に向かってソラちゃんは優しく、しかし反論はほぼ認めないという雰囲気で声をかけた。

「じゃあ、一緒に調査計画を作ろうか」

 前回の賢者タイムのピロートークのことなどさっぱり忘れていた僕は、最初、ソラちゃんが何の話をしているのかわからなかった。いや、賢者タイムのことを憶えていても、これを一発でわかれというのは難しすぎる。僕は机を拭きながら首を傾げた。

「調査計画? 何それ?」
「君の身体の調査だよ。徹底調査。どこに何をしたら、何が見えるのか」

 僕はソラちゃんが何の話をしているのか、唐突に理解した。ソラちゃんは本気だ。しかも僕の予想を遥かに越えて、やたらと大掛かりなことを考えているらしい。何か取り返しのつかないことが始まる予感が僕を襲った。僕は徹底調査されてしまうのか?

 ソラちゃんの大きな瞳が僕を見つめている。

 すっぴんでもソラちゃんは美人だなと思いながら、僕は出来る限りの抵抗を試みた。ソラちゃんが本気を出したら僕に勝ち目はないのだけれど、無抵抗のまま制圧されるのも悔しいではないか。今生に転生してくる時、神様にチート能力を貰っておけば良かったと思う。

 いや、もしかしたら何かは貰っていたのかもしれない。でも、それが何だったのか思い出せないまま、僕は二八歳になってしまった。

「あの、もう一度確認しますけど、ファンタジー小説の件ですよね」

 何故か丁寧語になっている。

「はい、そうです。ファンタジー小説の件」

 ソラちゃんも丁寧語で返してきた。さすがの手練だ。一分のスキもない。

「お書きになられるご予定なのは、R18のラノベでしょうか?」
「違います。王道のファンタジー小説を書きたいと思っています
「大変失礼ですが、セックスの話を使ってそれが書けるのですか?」
「書けます。多分」

 そう言ってニヤリと笑うと、ソラちゃんはつと立ち上がってリビングルームから出ていった。そして数分後。戻ってきたソラちゃんの手には、一冊の文庫本があった。表紙には淡い色彩で半裸の女性が描かれている。ただしラノベの表紙と違って萌え絵ではないから、セックスアピールは感じない。

「これ見て。酒見賢一の『後宮小説』」
「中華後宮もの?」

 中華後宮ものとはラノベの一大サブジャンルである。中国風の架空の国の後宮に入った女性の主人公が、意外な特技を生かして大活躍したり、運命的な恋に落ちたりする。女性のファンが多い。もちろん僕は読んだことがない。

 ソラちゃんは微苦笑を浮かべている。

「むしろこれが中華後宮もののルーツなんじゃないの? 一九八九年の作品でアニメにもなったからね。『彩雲国物語』より一〇年以上早いよ。ともかく読んでみて」

 ソラちゃんに促されて、僕は『後宮小説』を開いた。

 最初の一行はこうだ。

腹上死であった、と記載されている。

酒見賢一『後宮小説』より

サービスシーン

 僕は視線を上げてソラちゃんを見た。

 ソラちゃんがニヤニヤ笑っている。

「腹上死って何?」
「セックスの最中に死ぬこと」

 僕は無言で更にパラパラとページをめくった。難しい言い回しが沢山出てくるが、セックスの話は僕には見つけられない。

「最初だけじゃないの?」
「そんなことないよ。ちょっとそれ貸して」

 そう言ってソラちゃんは僕から文庫本を取り上げると、中程のページを開き、こちらに向けて差し出した。一四九ページ。「淫雅語」という章だ。

……しかし、終わりまで続けることが出来なかった。特に重要な下半身の部分に名前を書き入れようとすると、セシャーミンがついには声をあげて身もだえるので、字にならない。銀河がやめようとすると、セシャーミンが続けろというし、続けようとするとセシャーミンは身体をくねらせて書くことをできなくする。最後にセシャーミンは「あっ」とひと声上げると、朦朧とした表情になり、前後不覚の状態に陥ってしまった。
 見ようによっては幸福そうな顔で眠っているセシャーミンを見て、銀河はやっと思い当った。
「菊凶先生の授業で言っていた、行く、というのはこれかあ」

酒見賢一『後宮小説』より

「どう?」
「……あの、どういう話ですかこれ」
「ええとね、後宮に入れられた女の子たちがセックスのやり方を勉強していって、その中の一人だった主人公は美少年の皇帝と恋に落ちて、正式なお妃さまになって、でもその直後に反乱が起こって、最後に皇帝と主人公は一回だけセックスをする」
「それから?」
「皇帝は殺される。主人公は逃げ延びて皇帝の子供を生む。その子が次の王朝を建国する」
「あらすじだけ聞くと、今の中華後宮ものと変わらないなあ」
「『後宮小説』の新しかったところは、セックスの勉強を大真面目にやっている前半から、後半のボーイミーツガールものへの展開の極端さだろうね。名作中の名作だよ。おすすめ。私は何度読んだかわからない」
「謹んで拝読致します」
「それでね」

 ソラちゃんの目が輝いた。

「私も、こういうの書いてみたいんだよ」
「セックスがテーマのファンタジー小説?」
「そう。初めてこれ読んだ時は本当にびっくりしてさ。セックスの描き方が新しかった。というか、今読んでも新しいの。単にセックスシーンが出てくるファンタジー小説だったら、性暴力シーンは一種のサービスシーンとして昔から色々あったわけ。女の子の冒険者が悪者に強姦されるなんて今でもアダルトラノベの定番じゃないの?」

 最近は他にも色々あるよ、とは敢えて言わなかった。怖いから。

島耕作って誰ですか

 ソラちゃんの熱弁は止まらない。

「女性作家が書いたものでも、例えばマーセデス・ラッキーの『女神の誓い』なんかいきなり主役の女戦士が強姦されるシーンから始まるし、その次は ペドフィリアのドメスティックバイオレンス男が出てきて、最後は乱交カルトとの戦いだけど」
「ちょっと、ちょっと待って。それR18のラノベじゃないの?」「違うよ! マーセデス・ラッキーは一九八六年デビューのアメリカの作家で、剣と魔法もののファンタジーをいっぱい出してる人。『女神の誓い』は女性が性暴力被害からいかにして立ち直るかってのがテーマなんだよ。あの世代の欧米の女性作家はだいたい第二波フェミニズムの影響を受けてるから」

 ソラちゃんのスイッチが完全に入ってしまった。僕は抵抗をほとんど諦めている。

「そういう目で見ると、『後宮小説』は女の子の描き方がちょっと古いというか、全体的に島耕作っぽいっていうか。それが凄くもったいないと思ってて」

 ええっと、島耕作って誰ですか? 作家でいたかな?

「銀河もセシャーミンも江葉も、いかにも男が考えて設定したような強い女性なんだよ。男に興味がない孤高の女英雄みたいなの。でも、そうじゃないんだって! 女にも色々あるんだよ。生きてるんだから。生身の体で。『後宮小説』は、その辺が物足りないの。私たちの物語だって感じがしない」

 ここまで一気に話してから、ソラちゃんは羊柄のマグカップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。

「……でも、登場人物たちがセックスについて真面目に考える状況を設定するってのはやっぱり斬新でさ。これすごいと思ったんだよ。やられたって。その手があったかって。で、まあそんなわけでね」

 どんなわけなんだろう? ソラちゃんの話は情報量が多すぎて、前半の三分の二はもう憶えていない。ユーチューブみたいに再生速度を〇・七五倍に出来ないものだろうか。あと、繰り返し再生機能。それを言ったら絶対にグーで殴られるから、絶対に言わないけどね。

「前半はセックスについて大真面目に考えていって、途中から予想外の方向に行くファンタジー小説を私は書きたい。ヒロインは男キャラの都合では動かないけど、男に興味がない圧倒的な強キャラでもないようなのをさ。もちろん協力してくれるよね?」

 確認の形を取った命令だ。

 結局、僕はソラちゃんのファンタジー小説執筆プロジェクトに協力することになった。ソラちゃんの圧倒的な情熱と情報量に押し切られたというのが、協力する理由のほとんどだ。

 でも、僕自身セックスをしている時に見える風景のことは気になっていたから、それについて調べてみたいという気持ちもあった。

 あとはもちろん、ソラちゃんの身体だ。男性にはわかってもらえると思うが、僕はソラちゃんとセックスがしたかった。よもや最後にああなるなんて、この時の僕たちはかけらほども想像してなかったけどね。

 さて、僕が協力の意志を伝えると、ソラちゃんはとても嬉しそうな顔をしてくれた。

「じゃあ、研究倫理審査は合格ってことで。こっちおいで」

 まさに使い魔を呼びつける魔女である。抗えない。

 ソラちゃんが普段仕事で使っているパソコンの左側のモニターにはスプレッドシートが表示されていた。左端の列には日付が、その隣の列には僕の身体の各部位の名称が、更にその隣の列には愛撫の方法が入力されている。

 さすがは魔女さまだ。段取りが完璧だ。

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