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賢者のセックス / 第3章 手と唇 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

興奮の盛り上がり、ですか?


 カチ、カチ、カチ。マウスをクリックする音が響く。

 ポインタが画面の上を行き来する。

 表示されているスプレッドシートの二列目には、唇とか首筋とかペニスとかいった単語が入っている。その隣にはキスとか、さするとか、なめるとか、口に含むとか……。あまりにも即物的で、ここまで来ると恥ずかしさはほとんどない。お仕事という感じ。

 時折、ソラちゃんは僕の方を見て考え込む。愛撫方法の分類について悩んでいるのだ。

「君、正常位で動いてる時に何か見えるって言ってたよね」
「うん。どこかの神社の鳥居」
「正常位ってのは部位じゃないよなあ。体位だよなあ。そうすると部位と愛撫方法の二変数での分類は無理がある? どう思う?」
「挿入後は部位をペニスにして、愛撫方法の列に体位を入れたら?」
「おお、確かに。君、賢いね」
「どうも」

 そう言いながらも僕は少しだけ疑問を感じていた。たしかに挿入後に僕が一番強い快感を得るのはペニスからである。でも、それならば体位は一種類で充分なはずだ。どんな体位であれ、ペニスは膣の中に入っているからだ。

 では、何故、僕たちは今まで色々な体位でセックスをしていたのだろう?

 よくわからない。

 後から見ればこの時の僕の疑問は、数ヶ月前から僕の中で起こっていた怪現象の核心のすぐ隣に置かれていたのだけれど、それに僕たちが気づくのは、かなり先のことになる。

 ともかくこのようにして最初の調査計画が作成され、直ちに第一回調査が実施されたわけだ。

 ちなみに僕のものを左手で愛撫していた時のソラちゃんの服装はベージュ色のコットンのブラウスの上に薄手のニット、そして黒のワイドパンツ。よくわからないけどきっと高価な香水の香りもしていた。明るいお日様とか海風を感じるような。で、僕は全裸である。ソラちゃんは暖房を強めにかけてくれていたけど、それでも格差みたいなものを、ちょっとは感じた。

 一回目の調査の後、シャワーで精液を洗い流してからリビングに戻ると、二面モニターの前で難しい顔をしているソラちゃんが見えた。

「ねえ、さっきのあれで思ったんだけどさ、強さと早さは別々の変数にした方が良くない?」

 既にスプレッドシートには新しい列が付け加えられている。強さと早さ。仕事が早い。

「で、見えたものは、草が生えている斜面? それから木と手すりと階段?」
「そんなところかな」
「斜面緑地っぽいね。どこかの公園なのか。でも、マンションでも斜面に作ると敷地の中にそういう場所は出来るしなあ。テーマパークという線もある? 旅館とか、日本庭園っぽさがあったりした?」
「そこまで細かくは見えなかったけど。もう一度試したら、もっと色々見えるかもしれない」
「それはたしかにそうだね」

 ソラちゃんはモニターを睨んだまま頷いた。

「あと思ったんだけどさ。愛撫が始まってから射精まで、こう、何て言うんだろう。興奮の盛り上がりみたいなものがあるわけでしょ、君の」
「興奮の盛り上がり、ですか?」
「違うの? 単純に興奮を積算していって、閾値を越えたら射精ってことなの?」
「ごめん、ソラちゃん、もう少しわかりやすく説明して」

 ソラちゃんはプリンターから紙を一枚取って、僕の前に置いた。そこにボールペンでL字型の線を引く。

「縦軸が君の興奮、横軸が時間経過ね。私が知りたいのはさ、ここが射精の閾値だとして」

 縦軸のかなり上の方から、横にもう一本の線が引かれた。

「興奮ってのは、愛撫が始まったら、どんどん積算されていって、それがこの線を越えたら射精ってなるの? それとも、愛撫を止めたらこの値は下がったりするの?」

「射精時には何も見えず」

 ソラちゃんの表情は真剣そのものだ。

「うーんと、多分、積算ではないと思うな」
「愛撫を止めたらそこで興奮度はホールドじゃなくて、下がったりもするわけね?」
「多分……今まで考えたことも無かった。女の人はどうなの?」
「さあねえ」

 ソラちゃんが首をかしげた。

「私は知らない。私、多分イったことないから。君、女の子がイッたところ見たことあるんだよね?」
「うん、まあ……おそらく」

 僕はソラちゃんから一瞬、目をそらした。

「私、君としてた時にイってたことってあった?」

 僕たちの目が再び合った。ソラちゃんの表情は真剣だ。冗談を言っているとは思えない。

 実を言うと、僕はソラちゃんがオーガズムに達しているかどうかを気にしていなかった。

 これには三つの理由がある。

 一つは、ソラちゃんは僕がこれまでにセックスをした女性たちの中ではかなり反応が敏感な方で、つまりセックスが始まるとソラちゃんはいつも感じているように見えたからだ。だから、イっているかどうかがよくわからなかった。

 二つめの理由は、女の子がオーガズムに達するかどうかは個人差が大きいので、あまりそれにこだわるべきではないということを、真面目な性教育のウェブサイトで読んだことがあったから。

 三つめの理由として、セックスのパートナーを比較するのは、どのパートナーに対しても失礼なのではないかと考えているからというのもある。

 僕がそう説明すると、ソラちゃんは意外なほどに優しい笑顔を見せてくれた。

「君は素直で正直でとても良いね。男がみんな君みたいだったら、世の中はずっと住みやすくなる」
「女の人は?」
「もちろん、女もだよ。でも私は今、男の話をしてる。さあ、仕事に戻ろう。愛撫開始からオーガズムまでが興奮の積算ではないとすると、例えばこういうカーブも考えられるわけだよね?」

 いつの間にかお仕事ということになっている。ソラちゃんはN字型のカーブを先程の紙の上に描いてみせた。グラフの線のつもりらしい。ボールペンの先がN字の左側の棒の上端を指す。

「このピークがオーガズムの閾値未満なら、こう、一度下がってからまた上がっていくこともあるのかな? あるんだよね?」
「あると思う」
「じゃあさ、この閾値未満の範囲の興奮には質的違いがある? つまり、射精する、しないという違いとは別の何かが」

 ソラちゃんのボールペンの先が、射精の線の下を何度か行き来した。僕はかなりの時間、真面目に考えてみたが、結局よくわからなかったので、正直にそう答えた。

 僕の曖昧な回答を聞いたソラちゃんは、にっこりと笑って言った。

「まあ、自分でもよくわからないものだよね、自分の身体は。私が知りたかったのは、君が見るものが、この縦軸の中で変わるかどうかなんだ。さっき見えた映像は一種類だけだったよね?」
「うん。斜面の緑地だけ」
「イク瞬間には見えてた?」
「消えてた」
「了解」

 ソラちゃんの綺麗な指がキーボードの上を動き周り、「備考」と書かれた列に文字が入っていった。

”射精時には何も見えず”

女の子の日

 それからソラちゃんはパソコンをスリープさせて立ち上がると、部屋の隅に置いてあったネイビーのトートバッグを肩にかけた。

「ジムに行ってくるね。晩ごはんを食べたら続きをやろうか。どう? 出来る? 次は右手で射精までだけど。今日はもう疲れた?」
「いや、大丈夫だよ」

 それについては確信があった。今こうしてソラちゃんと話している間ですら、少しズボンがきついからだ。とはいえ、僕はまたさっきと同じようにして、服を着たままのソラちゃんに手でイカされるわけだ。それはそれでゾクゾクするような経験だけれど、釈然としない要素も少しだけある。

 なんだか実験動物になったような気分。

 そんな僕の表情に気づいたのだろう。ソラちゃんは僕のところまで戻ってきて、優しく頭を撫でてくれた。

「ごめんね。今日はまだ女の子の日なんだ。だからあそこは使えないんだよ。でも夜する時は私も脱ぐから。それで我慢して?」

 そこまで言われたら、逆に僕の方が申し訳無くなってくる。でも、これでわかった。ソラちゃんは本気だ。本気で小説の賞を取ろうとしているのだ。

 ソラちゃんがジムから帰って来たのは、僕が夕食の準備を整え終わった頃だった。ソラちゃんは朝はイングリッシュブレックファストでないと機嫌が悪いのだけれど、昼と夜は何でも喜んで食べてくれる。僕はこの日、ちらし寿司とサラダと味噌汁を作った。サラダはオーブンで焼いたカボチャと生トマトと茹でたブロッコリーをヨーグルトドレッシングで和えてアルファルファを乗せたもので、ソラちゃんが好きなメニューの一つだ。「義侠」という凄い名前の日本酒を江戸切子のグラスに注ぎ、僕たちは乾杯した。

 僕たちは食事をしながら色々な話をする。仕事の話もするし、お互いの趣味の話もする。ソラちゃんはファンタジー小説だけではなく、アートやデザインやファッションにも詳しい。この日は最近どこかで見てきたという、石岡瑛子という人の展覧会の話をしてくれた。例によって僕にはさっぱりわからなかったけれど、僕は幸せだった。多分、ソラちゃんの生き生きとした表情を見ているのが好きなのだ。

 ソラちゃんと取り留めもなく話をしながら二人で食べるちらし寿司は、美味しかった。

 今も世界は新型コロナウイルスのパンデミックの真っ最中で、半月前から東京にも再び緊急事態宣言が出されている。人との接触はなるべく避けてくれと、政治家もお医者さんも言っている。誰かと握手することすら出来ない日々が続く。友人にもリアルではほとんど会っていないし、僕はソラちゃんの家に移ってから一度も実家に戻っていない。それはソラちゃんも同じだ。

 僕たちはハロウィンもクリスマスも年末もお正月も二人で過ごした。まるで、二人だけで小さなヨットに乗り込んで大海原を漂っているような八ヶ月間だった。

 だから、こうやって一緒に食卓を囲める誰かが傍にいることは、とても幸せなことだと今、改めて思う。神様に感謝すべきかもしれない。

 食べ終わった食器を食洗機に放り込んだところで、ソラちゃんは僕の顔を見て言った。

「じゃ、行こうか」

 どこへとは言わない。ソラちゃんの口調はまるでコンビニにでも誘っているかのようだったけれど、僕たちが向かうのはベッドルームだ。

魔女の結界

 ベッドルームに入った僕は、後ろからソラちゃんを抱き寄せると、少し強引に唇を吸った。ソラちゃんの口の中に舌を入れ、ソラちゃんの舌先を探す。ディープキスをしたままニットの中に手を入れて右手でブラジャーのホックを外し、ブラウスの上からおっぱいを触る。僕の手のひらとコットンの生地がこすれる音に混じるようにして、ソラちゃんの「うんっ」「あっ」という鼻にかかった声が聞こえる。

 ソラちゃんの乳首は僕が触る前から固くなっていた。僕はソラちゃんのうなじにキスをした、ソラちゃんの右手が僕のズボンのファスナーをそっと下ろしているのがわかった。

 ……こんなふうに書くと、僕たちはまるで恋人同士のように見えるかもしれない。でも、僕たちがこんなことをするのはこの部屋の中だけなのだ。

 この部屋の外で僕はソラちゃんの身体に一切触らない。ソラちゃんは部屋の外でもたまに頭を撫でてくれるけれど、それだけだ。

 僕たちはこの部屋の外ではキスどころか手すら繋いだこともない。それどころか、この部屋の中での二人の行為は、これまでは「無かったこと」だった。僕たちは、この部屋の中で二人がしたことについて、部屋の外ではお互いに一言も口にしなかった。僕たちが初めてセックスした日の翌朝、ソラちゃんがまるで何事も無かったかのように振る舞っているのを見て、僕もそれに合わせた。どちらから言い出したわけでもないが、以来、それが暗黙のルールになって続いていた。まるでベッドルームに魔女の結界が張られていたかのように。

 だから、僕たちは今回の「調査」が始まるまで、この部屋の外ではあくまでも「中学の先輩と後輩」で「ただのルームメイト」だったのである。

 僕たちの交友関係で重なっているのもいわゆる「地元」の仲間たちだけ。それ以外の部分にはお互いに踏み込まない。お互いのSNSアカウントもフォローしていない。一緒に住んでいることすら、親を含めて誰にも言っていない。もしもソラちゃんが外で他の誰かとセックスしたとしても僕にはそれを知る術がないし、何かを言える立場でもない。もちろん、僕が他の誰かとセックスしても、ソラちゃんは何も言わないだろう。

 とはいえこんなご時世なので、お互いに新しいパートナーと出会う機会は無くなってしまった。このパンデミックが僕たちをセックスのパートナーとして結びつけていると言っても良い。皮肉なものだ。 

 コットンの生地越しに左右の乳首の先をまさぐっているうちに、ソラちゃんの全身は震えだした。息遣いが荒くなり、声になる寸前のようなため息が聞こえる。僕はソラちゃんのブラウスをたくし上げてブラジャーを下にずらし、左の乳首を吸った。

「ふぁぁっ……んふっ……ぁはぁっっ」

 ソラちゃんのため息が声になって僕の耳に届く。僕は右の乳首を中指の先でゆっくりと撫でながら、左の乳首をそっと噛んだ。

「うんっ」

 ソラちゃんの背中がぴいんと反り返る。左右の乳首を愛撫しているうちに、ソラちゃんは立っていられなくなった。

 僕はソラちゃんを抱きかかえるようにして、そっとベッドの上に寝かせた。ワイドパンツの中に右手を滑り込ませてソラちゃんの太ももに触れる。ソラちゃんの肌は、これが同じ人類のものとは思えないほどに肌理が細かく、夢のような手触りだ。

 僕はもう一度ソラちゃんの唇の中に舌を入れた。でも、今日のソラちゃんは普段とは様子が違った。いつもならすぐに舌を絡ませてくるソラちゃんなのに、今日は少しだけ抵抗している感じがする。僕が唇を離すと、ソラちゃんは僕を見上げながら言った。

「ねえ、君、調査のこと忘れてない?」

 そうだった。これはファンタジー小説を書くための調査なのだった。

不思議な味がする

 僕はソラちゃんの上から身体をどけて、ゆっくりと服を脱いだ。全裸になって振り向くと、ソラちゃんもショーツ一枚になっていた。僕を手でイカせるだけなら、そんな格好になる必要はないのに。

 それから僕はベッドの上に横になり、ソラちゃんの右手でゆっくりと愛撫された。今度はイキそうになったところで申告することになっていたので、僕は三回も射精の手前で引き返すはめになった。

 右手でしてもらっている時に見えたのは、茶色や青のトタンが外壁に張られている、ちょっと古めの住宅街だった。家と家の間を幅二メートルほどの用水路のようなものが静かに流れている。散りかけた桜。れんげ草。用水路の脇には白い花をつけたアレチノギク。僕はその風景に見覚えがあると思った。僕は快感に耐えながら、見えたものを一つずつ言葉にしていった。

 こうして充分にデータを取れたと判断したところで、ソラちゃんは僕に「イって良いよ」と囁いた。三秒後、僕は射精した。

 驚いたことに、ソラちゃんはそれを口で受け止めてくれた。僕にとっては初めての経験だ。女の子の手でペニスを優しくしごかれながら温かく湿った口の中に精液を放出するのは、この上もなく甘美で陶酔的な時間だった。僕は大声を出しながらベッドの上で何度も身悶えした。

 射精を終えてからも、僕のものはしばらくの間、ソラちゃんの口の中にあった。しばらくしてソラちゃんはそっと僕のものから口を離し、顎をツンと上げた。ソラちゃんの喉が動くのが見えた。ソラちゃんが笑いながら言った。

「不思議な味がする」
「他の人のとは違う味?」
「それはわからない。私も口に出してもらうのは初めてだから」

 そう言いながらソラちゃんは僕の横に身体を寄せて座った。

「味見する?」

 ほんの一瞬だけためらってから僕はソラちゃんを抱き寄せて、その唇の間に舌を差し込んだ。たしかに不思議としか言いようがない味だった。

 翌日の午後には口でしてもらっている時の調査を行い、やはり池が見えることを確認した。池の中央には噴水があった。燦々と降り注ぐ日差しの下で、噴き上げられた水がきらきらと輝いていた。

 その他、一週目の調査でわかったことをまとめると、次のようになる。

■愛撫をする側が愛撫をされる場所にかける圧力や速度と、風景の見える見えないには相関関係がある。

■ 更に検証した結果、愛撫行為の主体が出力する圧力と速度は、それぞれが別個に風景の出現に作用しているのではなく、圧力と速度の積が説明変数として、目的変数である風景の出現/非出現に作用していると思われる。

■愛撫行為によって見える風景は、愛撫される箇所と行為のセットに一対一で対応している。

■愛撫行為によって見える風景はおそらく特定の日時に特定の地点から見たものである。

 さすがはバリキャリのコンサルタント。ソラちゃんが本気を出すと、セックスの話がセックスの話に見えなくなる。これも魔法の一種だ。

(第3章 了)

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