『Don't hurt my heart.』伺

(長いうえにまとまってない)

言葉の広がりが、固定された複数の意味によるグラデーションや徹底批判!による定義付けや範囲を認知することだけではないことが薄々わかってきて、それは詩的テクストであったり文脈に依存する概念であったりコミュニケーションの場で産まれてくる赤ちゃんだったりして、わたしは社会で生きていく上で捨てざるを得ないこれらの大切な煌めきことばたちを拾い上げていくことで生きている節があって、わたしはその全体像を常に捉えたい。それが優しくなるということの一部分だと思うから。

今回、それと同じことが写真(と写真展)で起こっていてかなり嬉しかった!『Don't hurt my heart.』という写真展に伺ったのですが、それはもう素晴らしくて!!

ポートレイトって難しくって、インターネットやコンビニや街中にいくらでも転がってしまっているもんだから、「女性」「かわいい服」というだけで写真を写真だと見なさずに「かわいい女の子」として消費されてしまうことが多々ある。(まさに、「君たちはおじさんに心底舐められている」)その時、写真家の目はもちろんの事、カメラに光として押し留められている本人がどう生きてきて、どうカメラの前にいて、どう光として存在しているか、その精神性みたいなものは完全に不可視化されている。見えない!というか見ない、無視するといったあきらかに故意の行動による方向性。もちろん、有用性が大幅に違うもの(マグショットや証明写真、ベン図だけどただ服のサイズを確認するためのもののファッションフォトなど)をそこまで考えていたらシンプルにその目的自体がボヤけてしまって元も子もなくなってしまうのでしょうがないのでそれはぜんぜんOK🙆‍♀️しかし、人間(とりわけ女性たち)の精神性精神世界精神言語による文脈が蔑ろにされ続けているのはただ写真の世界だけではなく私たちが生きてきた社会も同じで、わたしたちが知覚することで成り立つ写真という媒体の方面では一旦そこに、わたしたち観覧者がアプローチというか注目してみることはこれはかなり大事なのではないでょうか。①写真の機械としての全知全視のニンゲンの手を離れた超越性と、②少女とかつて少女だったすべての人たちが持つこの最悪な世俗にはどうにも存在していると認められない美しさやその崇高な魂の形 がリンクして混ざり合い相互作用でより克明にわたしたちの視覚に光として飛び込んでくるような、今回見させていただいた写真たちはすべてそういうものたちでした。印画だとか、平面だとか、そういうものを超えた物体として光がパワーとして訴えてくるので、かなり親切に教えてくれます。(飯田エリカさんの手腕がヤバすぎる)そしてその紡がれた世界の渦(今いる土地とは違う時間)が写真展会場で満ち満ちていて、それは窓から入る光や音、戸田さん、飯田さん、さざなみさん、スタッフの方、ミスiDの女の子たち、お客さん全員と、それからその写真たちとその写真が辿った時間たちすべてがモンタージュのように、なにか精神世界にしかない、現存の世界にはひとつもないであろう愛(今は、文字数の関係でこれでしか言えなくて)の形をひとつに集めて、届けてくれた。写真が空間を作る時、それが人間に作用し得るという事実がわたしにとっては本当に希望でしかないのです……。シンプルにここ最近対社会の自分がどんどん心の中まで入り込んで、失いそうな言葉や知覚するための目の広さを自覚し続けるみたいな地獄日々を送っていたので、ありがとうありがとうという話なのですが……。そしてモンタージュといえば、配布された戸田さんのことばの数々が掲載された書(しょ)と同時に写真を見れるのがかなり嬉しかったです。

そして、飯田さんの写真は、詩性を孕んでいると強く感じます。写真に込められた文脈が(何度も言うけど、誰でもはできない)受け取り手の記憶を呼び起こして、しかもそれが飯田さんの目、心、手、シャッターを押す動きとなんらかけ離れていない。感動です、かなり感動です。うう。Twitterで飯田さんが暗室のお話をされていて、

ああ、そうだ、暗室だ!となりました。スマホで見るブルーライトの平面が写真のすべてではなく、写真の物理的側面を、流れる時間によって現れる写真を、対峙として祈りとして捉えているから飯田さんはこんなにもゆらぎを含んだ写真を「写真」として撮ることができるのだと思いました。原理を忘れないことが伝えることに繋がっているのだろうと推測します。あまりに綺麗なものってそれを輪郭付けするときに細心の注意を払わなければならなくて、その線引のバランスが、戸田さんと飯田さんはどうしてこんなにも的確なんでしょう……。

↓まとめる気力がないから箇条書き

・さざなみさん!今回初めてきちんと作品を拝見したのですが、自分の身体が心に密接であることや女性としての身体を所有していること(寺山風に言うと肉体)への覚悟がとってもとっても感じられて、かっこよかったです。舞踊家のマリー・ヴィグマンのようでした。自分が自分として物理的に存在していること、身体を有していること。それときちんと向き合ったものにしか出せない身体感覚に依る美しい運動が、写真の中にありました。それは、男の人達から理想化され続けた女性の臓器を本来のものに戻す過程のひとつだと思いました。とか思ってたらTwitterで小林司さんが「大野一雄(ヴィグマンに師事)みたいだ」と評しており、やっぱそうだよね!と嬉しくなった!マリー・ヴィグマンといえば「魔女の踊り」なのですが、帰り際戸田さんが魔女のお話をしてくれて、リンクしすぎてびびりました!嬉嬉

・スタッフのmisakiさん。ミスiD2022の頃からかなりウォッチングしていたのですが、実際にお会いできてとても嬉しく……。さざなみさんのお子さん?と戯れているところを目撃したのですが、遜色なしに「光」っていました……。それが、スポットライトや発光というわかりやすいものではなく、柔らかな光、光と風と共に生きてきて、そのせいで自然がmisakiさんのもとに集まってしまったかのような、天然由来のものだったんです!わー!現代ではそれを魔(法を使える)女(の子)と呼ぶのでしょう……。

・戸田さんとの密話はきみたちにはシェアしません!聖域を大事にすると決めたので!(聖域ってことば、使いにくくなっちゃったね。)

・好きな教授が「とりあえず写真を一分間見てみなさい」と言っていたので見てきた。輪郭がゲシュタルト崩壊してからが本質の始まりなのだと学びました。

・タトゥーシールを買った。大事な時にお守り代わりにしようとおもう

・帰りにチャイティーを飲んだ。いつもはもっと鋭いスパイスが好きだけど、エグみのないミルク多めのチャイティーが今日の肌合いとぴったりだった。

・女性が女性の身体を憎まなくても良いように。憎むべきは社会の有り様!

・実存に根ざした少女性だって、十分素敵なものだと思うのだけれど!

・「内蔵差別」←ほんとうにそう!😭これは女性が都合よく人や大人になったりなれなかったりすることと同じ 自分の肉体は自分のものだ

・う、ポスターとか外観とか写真撮っとけばよかったな〜  忘れちゃっていた


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