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資本主義のその先を見に

「資本論」をテーマに読書会を始めて、もうすぐ1年。
今回は、その中で取り上げた「人新世の『資本論』(斎藤幸平)」と「つながりすぎた世界の先に(マルクス・ガブリエル)」の2冊から見えた世界と、そこからグルグルつながっていった世界を、ここに書き留めておこうと思う。

この世界で不可視にされていることに向き合う

私が「人新世の『資本論』」で最も突き刺さったのは、この事実。
資本主義の下、私たちの生活は大きな犠牲とその犠牲の不可視で成り立っているのだと気付かされたこと。
そんな大仰な、とここで思考停止してきたのが今までかもしれない。
犠牲になっている多くはグローバル・サウスと呼ばれ、
グローバル経済において、先進国が豊かになる一方で、その豊さの犠牲を強いられている地域を指す。
本書にはグローバル・サウスにおける様々な被害が列挙されているが、正直、遠い国のことのように思えてしまう。
地理的にも遠いという事もあるが、実際に、その事実はグローバルであるが故の長いサプライチェーンにより、見えにくくなっている。
そして、経済発展こそが資本主義の至上の命題であればこそ、
それを不可視にしている。
だって、今の生活水準を落としたくないでしょ?
なら、その辺は目をつぶっておいて、と。

テクノロジーの発展は、世界を救うのか?

読書会の中でも議論は割れたところ。
地球の資源、つまりこの地球まで犠牲にしても「今の生活」を手放せない私たちは、テクノロジーの発展にその希望を託す。
いつか核のゴミも破棄できる技術が生まれるんじゃない?
「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と、グローバル・サウスへの地理的転換でもって成長を続けてきた先進国は、搾取できる労働力や資源の限界を次は、時間的転換しているように聞こえてしまう。
「きっとテクノロジーがなんとかしてくれる、さ?」と。
少なくとも、私には、テクノロジーの「テ」の字も理解していない私には、
それは神頼みにすら聞こえてしまうくらい、全く、意思の及ばないことだ。
私たちの未来は、まだ神頼みの次元なのか?

加速主義と政治主義に見る「人任せ」

”加速主義は、持続可能な成長を追い求める。資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張するのだ。”

人新世の「資本論」

牛を飼うのに広大な土地が必要なら、代替肉を。病気を治すには、遺伝子工学を。労働はAIに。電力は、太陽光で無限だ、というように。
割と私たちにとって、よく聞く話だと思う。
一方、政治主義とは

”議会民主制の枠内での投票によって良いリーダーを選出し、その後は政治家や専門家たちに制度や法律の変更を任せればいいという発想である。”

人新世の「資本論」

こちらも、まさに私たちのマインドそのまま言い当てているかのような、そもそも政治ってそういうものでしょ?と言わんばかりの当たり前。

しかし筆者はこれでは、世界は変わらないと言い放つ。
そう、だって変わってないもんね。
まず大前提に「成長」があることで、資源の限界、地球の限界に到達する。
そして国家だけでは、資本の力を超える、つまりこのグローバル規模の課題は解決できない、というのも身を持って感じている昨今だと思う。

新しい世界の描き方

じゃあ、どうしたらいいのだろうというのは、読書会でも最も多く対話してきたことで、なかなかまだ抽象度は高いものの、ぼんやり次の3つが見えてきた。

1)使用価値という考え方
マルクスの資本論では「価値と使用価値の対立」として資本主義の不合理さとして批判しているという。価値とは、商品の値段。使用価値とは、その有用性。そして財産(私財)は価値で、富(公富)は使用価値。資本主義下では財産を増やそうと価値を求める。すると、

”SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やEDの治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。” 

人新世の「資本論」

つまり資本主義のもとでは、「使用価値」よりも「価値」を重視せざるを得なくなり、結果、有用性はともかく、高く売れるもの、たくさん売れるものが重視されるようになる。
それは最近言われる「ブルシット・ジョブ」にも当てはまると思った。いわゆるケア労働は使用価値が高いにも関わらず、価値が伴わないのは、価値と使用価値の優先順位が「儲かるか」という指標では逆転してしまうからなのだ。

2)ラディカルな潤沢さ
使用価値に注目すると、私たちは資本に踊らされなくなるではないかと思う。斎藤氏は「ラディカルな潤沢さ」という表現をしている。使用価値は同じなのに価値に違いが出るのは、希少性を人工的に生み出すからだ。同じ時計(使用価値)なのにロレックスとカシオで価値(価格)が違う。それは私たちの消費マインドを刺激して、欲望を際限なく生み出していく。
それに対して、私たちが「ラディカルな潤沢さ」を求めるとしたら、それは価値ではなく使用価値で判断することになり、欲望に振り回されて、しなくてもいい仕事を、食べなくてもいいものを、持たなくてもいいものを、手放していくことになるのではないか。

3)「倫理」という指標
こうした解決策を前に、私たちは読書会で「頭ではわかっているけど、難しい」という正直な感想を述べ合っていた。そこで次に読んだガブリエルの本が私には刺さった。そこには「倫理資本主義」という概念が提案されていた。つまり、資本主義のOSはそのままに、しかし、その向かうべき方向を決めるのが「倫理」なのだと私は解釈した。ただ、その「倫理」がまた私たちには縁遠い、泣笑。
斎藤氏もテクノロジーを否定しているわけではなく、前提を問い直そうとしている。
倫理とは「今の生活水準が落とせない。でもこのままじゃいけない気がする」という気持ちに向き合うことだと、私は理解した。正解はない、けど、見ないフリはしない。ちゃんと話し合おうよ、と。

そして読書会は最終章へ

今はE・F・シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」を読んでいる。40年以上前の古典なのに、目が覚めるような内容だ。
科学の進歩が目覚ましい一方で、私たちの人類は今尚、数十年前の偉人に諭されている。次回は、読書会の総括となぜ Small is Beautiful なのか、自分なりの言葉でまとめてみたい。

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