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“自分らしさ”って何?

ここ何十年かほど、自分というものを見失い、それを取り戻そうとしていろんな失敗、過ちを経て今がある。うちはずっとここ何年か生きてるうちに自分というものがわからなくて、常に優柔不断を彷徨って生きてきた
それがこの前リハーサルのとき倒れた。それがあったから今のうちは居れてると思うし、それによって家族ともしっかりと話すことができ、今まで自分がなにを感じてたのか。どう思っていたのかをすべて言ったらスッキリしすぎてそのスッキリさでさえ、違和感でしかない。だけどそれは過去のトラウマが今に成り立っていてそれを今知ったうちは凄く凄く切なかったし、辛かったし、寂しかった。なんで?って思うことたくさんあって、自分じゃどうにも出来ないことが大きかった。今までここ何十年もの間感じてた満たされさ、嬉しさなどは単なる錯覚で、それが今違ったんだ、本当のことじゃなかったんだ、錯覚してたんだ。ツラすぎた。って気づいた、自分はこんなふうにずっと何かに囚われている気持ちでいっぱいだった。ただ、それがなんなのかわからない。だけどそれを教えてくれる人だっていない。そんな日々が続いてた。自分的にはそれが物凄くツラかったけどそれをわかってくれる人は誰一人いなくて、それでも自分の何かをどこかで理解をしてくれる人がいてくれたお陰で物凄く救われてた。だからその友達には感謝の気持ち伝えようと思ってる。その自分を囚わってたものには自分でさえ気づけてなくて、小さい頃のあの頃の自分の話を話しても聞いてもらえず既読無視のような感覚の些細なあのもの寂しい気持ちのようなものが、時を重ねて今になってこんなにも大きくなったことでそれが限界となりこのような形で、リハーサルすら参加できずにメンバーに迷惑かけて、自分はこんなにもずっとキツかったはずなのにそれが当たり前だと感じて長い時間過ごしてて自分でもそれにすら気づけてなかったのだなんて自分失格だなぁ。とこんな風に痛感を感じながらも、今までされ続けてたことは今になればこういう形で痛感を得たわけだけど、それと同じくらいに感謝できることはある。それがこの前リハーサルのとき倒れた。それがあったから今のうちは居れてると思うし、それによって家族ともしっかりと話すことができ、今まで自分がなにを感じてたのか。どう思っていたのかをすべて言ったらスッキリしすぎてそのスッキリさでさえ、違和感でしかない。だけどそれは過去のトラウマが今に成り立っていてそれを今知ったうちは凄く凄く切なかったし、辛かったし、寂しかった。なんで?って思うことたくさんあって、自分じゃどうにも出来ないことが大きかった。今までここ何十年もの間感じてた満たされさ、嬉しさなどは単なる錯覚で、それが今違ったんだ、本当のことじゃなかったんだ、錯覚してたんだ。ツラすぎた。って気づいた、自分はこんなふうにずっと何かに囚われている気持ちでいっぱいだった。ただ、それがなんなのかわからない。だけどそれを教えてくれる人だっていない。そんな日々が続いてた。だからその友達には感謝の気持ち伝えようと思ってる。だけど、自分的にはその囚われが物凄くツラくてけどそれをわかってくれる人は誰一人いなくて、それでも自分の何かをどこかで理解をしてくれる人がいてくれたお陰で物凄く救われてた。だけどその自分を囚わってたものには自分でさえ気づけてなくて、小さい頃のあの些細な気持ちが時を重ねて今になってこんなにも大きくなったことで、それが限界となりこのような形で、リハーサルすら参加できずにメンバーに迷惑かけて、自分はこんなにもずっとキツかったはずなのにそれが当たり前だと感じて長い時間過ごしてて自分でもそれにすら気づけてなかったのだなんて自分失格だなぁ。とこんな風に痛感を感じている。今までにされてたことは今になってこんな風にこういう形で痛感は得たわけだけど、それと同じくらいに感謝できることはある。自分は少なからずその人と出会って、自分を見つけられた。そして、今の自分がいる。自分は今その人にものすごく感謝を伝えたい。そして何が言いたかったって、なんだかんだで人は人に助けられる。という事。

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