見出し画像

引きこもりは「救うべき存在」なのか?

*有料記事ですが最後まで無料で読むことができます。
面白い・役立ったと思った方は投げ銭をお願いします。

「引きこもりに支援を」という言論をたびたび耳にする。

その背景にあるのは、「人は社会に出て働くべきである」という固定観念だ。逆に言えば、「社会に出て働かない人間は健全ではない」という思想が僕たちの社会にはあるということだ。

しかし、僕は引きこもりに支援は必要ないと考えているし、むしろ彼らを「救おうとする」ことこそ社会にとって「悪」だと思っている。


働かないことは「悪」なのか?

そもそも、社会に出て働かないことは「悪」なのだろうか?

例えば、アラブの石油王たちはほぼ全員サラリーマン経験がないかと思うが、それを「悪」や「不健全」と感じる人はほとんどいないはずだ。「働かなくても生活できるんだし、むしろ羨ましい」と思うくらいだろう。

そんな石油王たちと同じで、引きこもりのほとんどは働かなくても生活できる環境にいるだけだ。雨風しのげる実家に住み、親の収入や資産で暮らすことができ、あるいは生活保護で低コストに生活ができているのだから、「悪」でも「不健全」でもなく「働く必要がないから働いていないだけ」なのだ。

彼らは「救うべきもの」どころか、むしろあくせく働かないと生きていけない一般庶民とは違い、有閑階級ともいうべき存在なのだ。

「働きたい人たち」が増えることの弊害

考えてみてほしいのだが、もしも社会のお望み通り引きこもりを「救う」ことができ、彼らが働くようになったら、一体何が起きるだろうか?

労働市場に大量の新規労働者が流れ込むことで、平均時給が下がったり機械化が遅れたりする結果になるのだ。

日本にいる引きこもりの数は少なくとも100万人、潜在的な引きこもりまで含めれば200万人とも300万人ともいわれている。そんな引きこもりたち全員が「働きたい」と言い出して労働市場に流れ込めば、賃金の下方圧力になるのは間違いない。「働きたい人」が増えれば、それまで時給1000円で募集をかけないと集まらなかった仕事に、時給900円でも応募する人が出てくるからだ。

意外と理解できてない人が多いが、「働きたい人」が増えると労働者の給与水準は下がるのだ。

また、労働市場に人が増えるということは、企業の機械化を妨げるインセンティブにもなる。例えば、時給1000円で労働者が集まらない仕事は時給を1100円、1200円…と上げていき、機械化のコストを上回る時給じゃないと集められそうにないなら、その仕事は機械化される。

しかし、働きたい人が増えて安い時給でも労働者を集めることができるなら、その仕事はずっと機械化されないままだ。

「働く必要がない人」が働くと本当の弱者が追い込まれる

引きこもりが働こうとすることで平均賃金が下がったり機械化が遅れたりするが、最悪の場合は彼らの代わりに失業する人を生むことになる。

引きこもりの大多数は低スキル労働者だから、彼らと仕事を奪い合って失業するのは同じく低スキル労働者だ。それも、引きこもりたちと違って収入や住まいを親に頼ることすらできない、言ってしまえば「引きこもりよりも弱者」と言える人たちが職を失うことになる

そうなれば、彼らは普通の人ならやりたがらないようなリスクの高い仕事をしたり、ホームレスになったり、新たに生活保護受給者になったり、最悪の場合には自殺という選択をしてしまう人もいるだろう。

このように、「働かなくても暮らすことができる人たち」を無理に働かせることは、「働けないと本当に困る人たち」を追い込むことになるのだ。

そんなリスクを負ってまで引きこもりを働かせる必要があるのだろうか?

引きこもりは「救い」を求めているのか?

「引きこもりの当事者たちも救いを求めている」という意見があるが、彼らは本心から救いを求めているのだろうか?

僕の考えでは、社会がひきこもりを「救うべき存在」とみなすからこそ、彼ら自身も「自分の状況はよくないものなんだ」と考えてしまうのだと思う。

もしも引きこもりが、「働かないで暮らせて羨ましい」という羨望の眼差しを人々から向けられる存在だったら、彼らは「働きたい」「救われたい」なんて思わず、有閑階級としての人生をエンジョイできていることだろう。

しかし、社会が彼らを「不健全」「救うべき」とみなすことで、彼らは自分の生活や人生を肯定できなくなってしまっているのだ。

「引きこもり」はそれ自体が社会問題なのではなく、彼らを「社会問題である」と思ってしまう社会の価値観に問題があるのではないだろうか?

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?