やらされてる感をなくすには。
楽しい、生きているという実感を得るためには、どうも自分で決めるということがなによりも重要なのだと思う。
辛いことやしんどいこと、不条理なことが仮に起こったとしてもそこに起因する出来事に自分の主体性のようなものがあれば、なんだか逆に楽しいという気持ちになってくる。生きているという実感がわいてくる。
僕は何年間か家にいて、特に何もしなかった。
多くの人はそのときの話を聞くと、なんだか辛かったねみたいな受け取りをしてくれる。でも僕はそれを自分から主体的に選び取ったのであって、誰か、親とかに強制されたわけでは無い。
よく、引かれた線路を通りたくないという話がでてくるけれど、そういうことなんだろうと思う。
自分で線路を引くと、効率が悪いだろうし、まぁうまくいかないだろうし、時間もかかるだろう。
だけれど、人生に目的地というものはないのである。
自分が存在しつづける限り、問題は多かれ少なかれ起こってくるし、うまくいくこともあればいかないことだってある。
大事なことは結局、そのときに踏みとどまって、じゃあどうしよっか、と考えられることで、これが「ネガティブケイパビリティ」という考え方につながっていく。
少し前に知った概念だけれど、そこに必要なことは、早急な問いへの答えではなくて、間違っていようが合っていようが、自分で決めた事実は認めるということなのだろう。
過去の出来事に自分を安定化させることができる。
今ここに集中すると、失敗というものの処理がうまくいかない気がする。
もちろん失敗なんてとっとと忘れてしまって次に進んでしまえばいいのだけれど。
自分の決定したことを受け入れるということは、何も自己嫌悪に浸る必要があるわけでもない。
例えば、僕はポメラを買った。この判断が果たしていいことなのかどうか、わからない。
毎日ポメラを触っていて、楽しいと感じる。だけれど、僕はプロのライターでもないし、これでお金を稼いでやろうと思っているわけでは無い。誰にも止められるわけでも無い文章を日々乱造して、悦に浸っている。
4万もあればいろんなことができる。新しい趣味でも始められるかもしれない。
ただ、この比較の世界の中で取捨選択いていても何も始まらないのである。
決めて、やってみる。うまくいかなければちゃんとそこで悩んで書いて考えてまた決める。
ポメラを買ったことを後悔する日が来るかもしれない。でもそのときにちゃんと決めたことを認めてあげたい。