小さなころの自分が好きだったものは手に入れたけれど、自分が欲しかったのはその物ではなかった。

土日はちょっと忙しい。
忙しいというか、僕自身は何もしない。
拘束時間が長い。暇なアクティビティなのである。
楽しくないという感じである。
逆に、拘束時間が長くても、楽しいアクティビティはなんだろうか。

例えば僕は話すのが好きである。人の悩みを聞いたりとか、何か問題の仲裁をするとか、結構ややこしい感じでも(むしろそのほうが)活力めいたものがでてくる。
ということは、今日あんまり楽しくなかったのは、そこに特に問題がなかったからかもしれない。
うーん、どちらかというと、自分の存在の必要性があまり感じられなかったからかもしれない。
自分が楽しいことをするというよりは、自分が行っていることを楽しめるようになっていきたい。
こうやって書くこと自体はどちらかというと、楽しめるようになったことで、最近は自分が楽しいことの一つに数え上げられる。
まずは、行ってみる。そして楽しめるようになる。最後にそれが自分が楽しいことになる、という順番だろうか。
そのそれぞれの間にある程度のエネルギーが必要な気がする。
いきなりなんでも楽しむというのは無理だろう。まずはやってみる概念の中でこねくり回して、自分が食べられそうな部位を見つける。そこから噛んでみて、味付けを考える。
ベストな味付け、調理法が発見出来たらもうそれは自分のレパートリーに加わって、普段使いというか自分の周りを漂う概念になりそうである。
今までやってみて、のれない、というかしっくり着ていなかった部分があったのは、いきなり楽しもう!あじわおう!というレベルの高い要求をしてしまっていたからなのだな、と今合点がいっている。
まずはそれを続けてみる。もちろん自分なりに変更してもいい。ただそれをある程度続けてみる。そうすることによって自分と相手の距離感のようなものがわかる。

小さな子供が学習のプロだということは、とりあえず続けてみる才能も、面白味を発見する嗅覚も大人よりはるかに優れているからなのだろう。
ただ、僕たちは以前は子供であった。その成長は不可逆的だけれど、自分がかつて子供だったという事実は、現在の子供への理解というか共感めいたもの、同情でもいいのだけれど、それにつながっていく気がする。
趣味がないとかんとかいってしまうまえに、まずはなんでもやってみるのさ。こうやってエッセーを書くのでもよろしいわけさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?