賢くある必要はない。

賢い君へ。
君は確かに賢い。
周りの反応が、空気が読める。

悩みを聞けば、その当事者すらわかっていない問題点が手に取るようにわかる。アドバイスをすれば、物事が好転する。
自分自身の課題にもひたむきに向き合うことができている。

ただ、賢いだけでは、だめだ。
賢いということは、他の人とは違うということであり、共感されない。
そして君は共感することが下手だ。
ひょっとすると、それを美徳に感じているかもしれない。そうではない。
君は自分が優れている領域を守ろうとしているだけである。

賢いということは、自分が全体的に賢いのではない。自分を狭めてその部分で他の人より優れているように見えているだけにすぎない。その理由は、君以外誰も、自分自身をその狭い領域に押し込もうだなんて悪趣味なことをしないだけなのに。

君は賢い。賢いが、だからといって世界が救えるわけではない。
君が扱っている世界は、君が扱える範囲の世界にすぎない。

無知に気が付くことが哲学だとかのたまうつもりは僕にはない。
むしろ、無知に気が付いたところで、それに着手するかどうか、という問題がある。観念的な君がますますそれに溺れることを僕は止めたいと思う。

ではどうすればいいか。
とても簡単なことである。賢さを捨てるのである。
何をすればいいかわからないかもしれない。
大丈夫である。何をしてもいい。愚かなことをわざわざする必要はない。
結局それは賢さの物差しで測っている。
じっと座っているだけでもいいし、たまにはワインを飲んでみてもいい。
いつも通らない道を通ってもいいし、気まぐれにnoteを書いてもいい。
ただ、自分という枠を外して考えてみる。

そうすると、賢さに守られていた自分自身が浮かんでくる。なんともなさけないような、それでいて、どうにも自分であるような、そんな愛すべきとしか形容できないような、その何かがある。

そこで気が付く。賢さということではなく、自分というものをわかりたかったのだ。認めたかったのだと。
認めるための手段としての賢さなんてものは捨て去った方がいい。
君は賢いが、君は誰だろうか。君は何だろうか。

意味を求めすぎてがんじがらめになって、それでも君は何かを食べているだろう。何を食べているのだろうか。誰が調理して、誰が後片付けをするのだろうか。
君自身について考えるということは、生活の中にしかないのではないだろうか。もう気が付いているかもしれない。

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