雨が降っているから、こういう内容。

死んでしまうことが怖いのではなく、何もなくなってしまうのが怖い。
今自分は幸運なことに、ある程度平和に生活している。
問題はもちろんたくさん抱えている。しかし、まぁ、生活というのはこういうものだ、という範疇にそれらの諸問題は収まっているように見える、見ているだけかもしれないが。
この間病院に行くことがあった。入院したことは一度もなくて、一度ぐらいは入院したいな、と思っている。思っているが、少し具体的な検査をしてきた。
結果からいうと、特に何もなく、健康そのものというお墨付きをもらっただけだった。
ただ、死ぬかもしれないと思った。もちろんそういう病気の可能性があって、検査したとかではない。でも、病院にいると、そこが非日常であるから、何か不穏なことを感じた。

僕の好きな哲学者にハイデガーというおじさんがいる。
あまり僕はハイデガーについて、ついぞ詳しくなることはなかった。
ただ、死ぬことを中心に今の生き方というか在り方を考えたドイツ人だという感じである。
有限性の中で限界を突き破るなんて真似をするのではなくて、一つ一つの動作を見直してみる、というぐらいのことだと勝手に解釈している。
人生の終わりを意識するタイミングは幾度となく訪れる。自分のそれを本当に体験することが可能かどうかなんて議論に僕は組するつもりはない。他者の人生の終わりに出くわす場面は生きている限り増えていく一方である。なんなら、お盆なんかのときに、お墓参りすると、徐々にお墓が増えていることがわかる。それはもちろんただの石ではない。

人生が本当に終わるだなんて、もしかしたら嘘なのかもしれない、という空想にふけるほど、自分の人生を諦めているわけではない。何をしなければならないかということが、もちろん完璧ではないにせよ、ある程度把握できてしまうような年齢になって久しい。
やる気を出す必要はないけれど、生きる気持ちということは、そういった端々からにじみ出来るものなのだろう。結果にこだわる必要は全くなく、プロセスを重視した方がいい、という大人的な発想を持つことはできているのだけれど、どうしても終わりがあるじゃないか、と指摘する子供っぽい自分を黙らせる方法は難しい。
その両者の共存を考えあぐねて、どうにも今日は筆を置く。

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