毎日更新やめます。という嘘をつきます。

僕はもううそをつかない。
もちろん、嘘である。

ただ、嘘をつくということには、条件がある。
嘘をつく前には、必ず嘘をついていると思われてはいけない。
また、嘘は素直につかなければならない。
後ろめたい嘘はすぐにばれるし、なによりすっきりしない。
ストレートに言わなければならない。

究極的に、嘘というのは、よくないものだとされている。もちろんそれも嘘だと思う。
世の中の半分は嘘でできていて、もう半分はまた嘘だと思う。
本当のことというのは、ダイヤモンドみたいに硬い。
硬すぎて脆い。こなごなになってしまう。本当というのはその場その瞬間にしか反映されない。
その点、嘘というのはいい。どこにでもなんにでも引っ付いていく。
みんなも嘘をついていこう。

ただ、嘘をつきすぎた僕が最近思うのは、もちろん嘘をつくというのは楽しいのだけれど、嘘をつくことができる、ということは、同時に嘘をつかないでいる、ということを可能にするのだな、ということである。

その場その場で、何が嘘かがわかる。何を言った方が潤滑につるつるすべっていくのかが、何を言ってほしいのかということが、手に取るようにわかる。これも無論嘘であるけれど。

嘘をついてはいけないという嘘を僕たちは教えられる。
継続は力なりということなので、嘘をつき続けるという継続も力になる。
何かをしてはいけないということは、ほとんど嘘だといえる。でもそういう嘘に慣れていないと、嘘ではない人生を歩むことはできない。

ある程度妥協することと嘘ということは違う。ある程度妥協するということはむしろ悪だといえる。嘘というのは、善悪とかいう暑苦しい二元論ではない。じゃあ、嘘というのは何だろうか。

僕は愛なんじゃないかと、結構真剣に考えている。
愛とは何かと問われると、ある人間とその他者との相互作用だといえる。
嘘も、自分自身に嘘をつくということがちょっと不可能である。
嘘は何にでもくっつく、なんとでもいえる、いう対象は自分の他者である。
言語の可能性の話になってきている。
もちろん文法や語彙の縛りがあるのだろうけれど、それすらも、嘘というのは超越している。

人生に意味があるかどうかは僕には正直よくわかっていない。ただ、人生は嘘まみれである。
僕がこうやって毎日更新しているのも嘘である。いうことはできる。確かめることはできない。
嘘についてちょっと考えるだけで、こんなに書けてしまうのも嘘のような話である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?