苦労して釣った魚に餌をあげる。その餌は釣り餌ではなくて良い。釣り上げたあとの魚は大きく見る。自分はいい釣り人だと思える。

人生の有限性のために。
僕たちは限りある人生を生きている。もう今日もほとんど消化試合な時間になってきた。
もちろん、これからいろんな作業を行ったり、行動することも可能だ。
でも、もうあと残り少ない。きょう一日をちらっと振り返ってみる。なかなか無駄にしたな、と思うのか、よかったなとほほ笑むことができるのか、それは実際に何を行ったかではなく、どう解釈していくかにかかっている。

毎日ある概念に触るということを考えている。
大きくとらえてみると、仕事、家事、健康、趣味、ぐらいの枠しかまだ見つけることができていない。
その中でも、下位概念として、例えば趣味なら将棋、ポケカ、ラジオ、読書…となっていく。
実際に行為することは、具体的な営みであって、抽象的な項目を達成することはできない。ただ、評価するときになると、具体的に評価するというよりは、どうしても抽象的な評価になりがちである。これはわるいことではなくて、そういうものだ、と思っている。
だから毎日ある概念に触れることをやってみるということは、やるときにはもちろん具体的な小さいステップに着目する必要がある。そうする方がやりやすい。
ただ今まで僕が間違っていたというか怠っていたのは、その行動した小さなステップを小さなステップとしてそのまま評価するのではない、ということである。評価することに真面目にやろうとすると、ある条件を設定してそれが満たされたのか、達成したのかどうか、というなんともいかめしいことになっていくけれど、なにも成績をつけてやろうというわけではない。さらにいうと、成績というのも別に何か罰を与えようとしているのではなく、その人を評価し、その日々の実践に活かすことができれば何も問題のない営みである。

小さく具体的に行動すること。そして大きく抽象的に評価すること。
例えば、書くこと、というのを毎日触れたいとする。
小さく具体的に行動するために、僕みたいにnoteに1000文字または10分書き続ける、という行為を設定する。これは各々で小さくできると思う。
書き終わった後にとても重要なことが、自分はちっぽけなことをした、ということではなく、自分はなんてすごいことをやって見せたのだ、と思うことである。つまり、僕は今日もなんだかんだいいながら書くことに対して向き合って、自分の概念を言語化することに成功したのだ、と評価する。これが大きく抽象的に評価できている、ということだろう。

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