あこがれることをやめられないとまらない。

物事について考えるということは、俯瞰的な視点が必要である。
自分についての話を考える際に、どうしても邪魔になってくるのが、感情である。
邪魔というか、厄介というか。感情をついつい優先してしまう。
ただ、感情というのは、事実とは異なる。当たり前のことに思えるかもしれないが、この点をわかるまで僕は時間がかかった。

常に気分よく過ごせることがもしできるのであれば、その感情を最優先して生き続けるということはいい方法かもしれない。
ただ、多くの場合はそうではない。自分のネガティブな感情に対して、それをどうこうする、というよりは、その感情の源であったり、状況であったり、そういった他者に目を向ける方がいい。
そんなことはわかっていても、なかなか難しい。
書くことが一つの歯止めにはなるのだろう、という推測ぐらいしかいまだにできていない。

その書くことというのは、自己分析になっていく。
僕の場合は夜に起き続けること、酒を飲むこと、というのが次の日の朝のコンディションを大きく低下させてしまうということが(ほどんど誰にでも当てはまるようなことだけれども)わかったので、こうやって早く寝て起きて朝活をするようになっている。気分がいい。
お酒を飲まない分お金も浮いている。
お金の考え方も書いて考えたいことではある。お金を浮かすためにお酒を飲まない、となるとなんだかネガティブというか我慢や根性という感じになってしまう。そうではなくて、結果的に、よくなるという方向を目指したい。

勉強でもスポーツでも、目の前の課題、イマココにずんずんと突き進む。
と、同時に、イマココだけでは、いったいなぜイマココに邁進しているのかわからなくなるタイミングがくる。もちろんそんなこといちいち悩んでないで、イマココやっとけばいいのだけれど、来てしまう。
その時に必要なことが、自分なりのあこがれを用意しておくということである。目的や目標とかではなくて。
あこがれの何がいいって、どんなに幼稚なことでも、あこがれていればいい、むしろその方がいいということである。
イマココに集中しすぎることも問題である。バランスをとるという大人な発想はやはり、ある種の大人にあこがれるところから獲得される。
子供はあこがれをいだかない。 これは年齢は関係していない。
あこがれの存在がいれば、そしてそうなろうとしていれば、その人はもう子供ではない。
憧れを手放してその時の雰囲気にからめとられてしまう人は、いくつになっても子供だということである。

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