なんでも気にするということは、なんでも気にならないということになってしまう。その両者のバランスはいずこ。

ご自由にお書きくださいと書いてあった。
僕が書く前にすでに。
どうかいても、自由なはずなのだけれど、それを読んでしまったからちょっといつもと違うように書いてしまっているような気がする。
書く事はそういう、がんじがらめになるようなタイミングがある。

ただそういう自分を受け入れる、それだけである。
何も難しいことはない。
毎日その対象を触るということが大事だなと思う。
このnoteも、毎日更新をしたいなぁと漠然と思っていて、おおむね?更新できているけれど、毎日更新!と思うとちょっと胸やけがしそうである。
そうではなくて、僕は自分のこのnoteを毎日触っているのだと考えてみる。ちょっとソフトな感じになった。
また、noteのみならず、僕の考えている概念や、ある種の哲学めいたものも触り続けていく。

ほこりが被らないように掃除する!とか管理する!とかそういうものものしい表現はちょっと嫌だなと思う。
もちろんそういう言葉がぱちっとはまって、バリバリできる人もいるだろう。
けれど僕はやることなすこと少し消極的、というか、消極的と自分が思っていることに関心を向けてその消極的さをずらしてその差をプラスに転じるようなところがある。つまり、アマノジャクなのである。
だから、考えていることはちょっと硬かったり、案外頑固なところがあるのだけれど、僕の本質のようなところ、というか長所のようなものは、にゅるにゅるしているところだと思っている。

ついつい思考がロックかかってしまったり、いっぱいいっぱいになってしまうことは日常的にあふれている。
そういうにゅるにゅるさを獲得したきっかけも、おそらくというか、十中八九両親の不仲というteenにはなかなか厄介な問題が頭をもたげたからである。
ただ、人間不仲になることもあるし、不仲になるということは、また仲良くなるかもしれない。まぁ、別に仲が悪くてもそれで世界が終わるわけでもないし、世界が終わったところで、それはそれでまた始めればよい、というかそれしかないよね、という坂口安吾の堕落論的なことをニート時代に培ってからは(もちろんそれからもその都度絶望したり諦めたり苦しんだりするものの)結局その土台から外れることはない。
僕を支えてくれる土台が、しっかりしてほしいという気持ちとは裏腹に、どう考えてもにゅるにゅるしているということは、アマノジャクの僕としては、ちょっと喜ばしい。

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