書きながら考えるのではなく、書いてから考えるという文章生成方法がしっくりくる。

時間がないと思う日々を過ごしていた。
ところが最近はあんまりそうは思わない。
忙しすぎるとか、taskが多すぎるとかそういうこともまぁあるのだけれど、時間がないと考えるときは、今のことをあまり考えられていない。
ある程度の箱を考えて(これが時間)その中にやることをつめこむ、とどうしても箱が壊れてしまう。
時間を感じるセンス?のようなものが壊れてしまって、1秒を1分を1時間を1日をあっというまに感じてしまう。

積読本を読んだときに、ビオトープという考え方はいいなと思った。
すべての本を読めるわけでもないし、その必要もない。
ゲームやドラマや映画や音楽やラジオ…多くの面白いコンテンツの洪水に僕たちはおぼれてしまう。
自分を世界に合わせるのではなく、世界を自分に合わせたらいいわけか。
そうなると僕の考えているケアの概念は変っていくのだろうか。
いや、まさにその考えを強化するか。
私という点を中心とした人や物事柄の集まりが自己だと捉える、ということは、それ以外の世界を省いていくのである。
この考え方は危険なのかもしれない。でも自己満足を追求するということは、あれもこれもではなくあれかこれかというところが必要である。
ポイントはやはりネガティブケイパビリティである。他者の成長に自分が寄与できていると判断することはほとんど錯覚である。
それを肯定的に引き受けるということか。
訂正可能の哲学も気になっている。一度は読んでみたけれど。
時間が有限だということ、その時間に遅さを加えるということ。
趣味的な話。自己完結していく。
趣味が素晴らしいのは、何か外に意味があるわけではないということで、趣味的な自己満足の探求か?次のステップなのかもしれない。
僕がこうやって文章を書くのも、自己満足というよりは趣味的な自己満足である。
その割には副産物は多い。
文章を書きなれるということ。学習とは結局それに慣れるかどうか、理解とか意味とかは後からついてくるんだろうなとひっそり思っている。タイピングだって英会話だって将棋だってね。

ということで思うのは、できないからやらない、という発想は大いに尊重すべきだけれど、やりたいのに、という枕詞が付くのであればうだうだいってないでやるべきなんだな、ということである。やりたいと思うこと自体が才能だと思う。続けられるとかどうとかはその重要さに比べると小さい。

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