箱について考えることが十八番。

ハコ理論を考えている。
物事には何事にもハコがある、ということ。
このnoteにしたって、今日のこの記事という枠組み、つまりハコがある。
考えを形にする、というのは、その考えに当てはまるハコを選ぶということなのだろう。ぴったりの箱が見つからない、とみんな嘆いて見せる。

ただ最近は、とりあえずちょっと大きめの箱に入れてしまってあとで考えたらいいんじゃないか、と思う。ぴったりの箱である必要性はそこまでない。

人間の行動も箱に例えられる。
職業だとすると、その職業的なハコが用意されている。なすべきことであったり、服装であったり、待遇であったり。
枠組みにとらわれたくない、ということは可能だけれど、それはあまり意味をなさない。というか、何かの箱に入っていないと僕たちはきっと形を保つことができない。
言語の箱であったり、環境の箱であったり、身体的なハコもそう。
自分の気に入らないハコを排除して、自分好みのハコを設定するのもいいだろう。行動の選択というのもそういうことかな、と思う。
部活動を選ぶときは、部活の箱を選ぶわけだ。
将棋だとしたら、将棋にもまたいろいろなハコがある。マトリョーシカ状態になる。
このハコ的な考え方はいったい何だというのか、といわれると、おそらく存在論的なのだろう。
どのように存在しているか、というとき、枠組みが必ずある。その枠組みがハコなのである。
僕たちはハコなしでは存在することもできない。
では、存在しているかどうか怪しい存在にはハコがあるのだろうか。おそらく、あるといっていいと思う。
おばけとか、神的なものほど、場所というハコと結びついているものもない。
愛にしたって、箱が設定される。
具体的過ぎるかもしれない。でも、具体的にそのものを抽出するよりも、ちょっと抽象的に箱で考えてみるとあんがい扱いやすい。
やる気というものが存在していないように最近は感じている。
ハコ理論を考えながら存在していないものについてああだこうだいうのは難しいかもしれない。なぁに、かまうことはない。
むしろわからなさというものを求めて僕は毎日書いているといっても過言ではない。自分の中にわいてくるこの言葉に向き合うために、書いている。ハコ理論、気になっている。
物理的なものの管理や、時間的なこともそう、単位ということなのか。ハコ理論、まだまだ先は遠い。ただ、ケアと関連している気がしている。
とてもざっくり書くと、ケアされる対象がもつ成長の可能性(誤解も含む)というのはそのケアされる対象よりもやや大きめの箱を用意してあげて、ケア対象がその枠組みまで成長する、ということなんじゃないか?結構つながりそうで今日もいい1日だったと思える。

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