寂しいからって、それを理由に行動することはできない。

今日更新したら、2日連続、気軽に書いてみよう。
書くということに対して楽観的過ぎるようなnoteの画面を見ながら、更新が途切れたことを少し寂しく思う。しかし、その寂しさの意味はわかってはいない。
寂しさを感じることが人間の主要な働きの一つではないかとさえ思える。生半可なAIでは、寂しさを噛みしめることはできないだろう。

最近家でテレビを見なくなった。朝の忙しい時間帯ではNHKがよく流れていた。おそらくこれは母親がCMを嫌っているせいだと思われる。
その流れで朝ドラが流れていた。僕がしばらく家にこもっている生活をしていた時、よく見ていた。
朝ドラのいいところは曜日感覚を養わせてくれるということである。平日は普通に流れていて、土曜日はその週の総集編、そして日曜日はお休みである。
ごみの日はなんだか曜日感覚が養われる気がしない。ごみの日だな、という感覚である。ただ、今思うと、曜日感覚とはいったい何だろうか。平日感覚休日感覚のようなことを僕は曜日感覚と認識していたのだろうか。

認識について考えることがある。ミスをするとき、何かがうまくいかないということではなくて、そもそもその概念のようなものを自分が持ち合わせていないときがままある。
この時、反省というか振り返りのようなことは、そのような概念があるということを受け止めるところから始まる。それ以外の手立てがない。
ただ、概念を持ち合わせていないようなミスをしてしまった場合、非難されることが多い。常識を疑われることもある。
僕自身は別に非難されても、常識を疑われても、逆に疑われるということは、常識なるものの存在を強く示していて、かえって常識について理解するきっかけになるわい、とすら思う。
ただ、僕以外の人はそういう状況に身を置いた場合、果たしてそのありがたくも口うるさい助言を咀嚼しきることができるだろうか。
飲み込むことは結構できてしまうのが、人間である。消化不良になってからでは遅い。まずはゆっくり噛みしめよう。
噛むというメタファーがですぎている。
時間をかけるということを考えた場合、足踏みよりも何か効果がありそうなメタファーだから選ばれたのだ、と後付けの理由だけ用意することがうまくなっている自分が少し嫌になる。自分に対しては寂しさを感じない。寂しさとは不在ということなのだろうか。自分が不在になることはついぞありえない。

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