俺は書くぜ。

体力も書きたいことも特に残っていないぼろ雑巾状態。
ただ、雑巾というのは、綺麗な白い状態ですまし顔をしていても、しょせん雑巾であって、むしろぼろ雑巾の方が雑巾としては真っ当な気配がある。
本質を見失っている白い雑巾。白いこと、それ自体が他者を拒んでしまう。
それよりは、僕はぼろ雑巾。どんな用途にでも使っておくれ。僕が使用法を決めるのではなく、その使用法に僕が合わせることができる、そんなぼろ雑巾。
ポエムチックな書き出しから始まってしまった。
いつも書き出しは悩む。というより、もうえいやと書いてしまう。
今日一瞬これを書こうかどうか迷った。
22時過ぎに家について一人で鍋を囲んで風呂に入った。
風呂では小説を読むのを日課としていたがもう読み終わってしまったので次の本を探していた。
ポッドキャストでおすすめの本が紹介されていて何も考えずに電子書籍を購入した。
しかし、それはなぜか辞書のような類のもので、僕が今求めていたものではなかった。得てして偶然の出会いというのは、今の自分にフィットしないものである。しかし、この出会い方というのはとてもすばらしいものでふとした拍子に僕や世界をガラッと変えてしまう。
それは13年前の大震災がそうだった。
多くの人がそうであるように、僕自身もあの地震が起こっていなければこうしていなかったと断言できる。
5年前にノートを書いたと思う(最初の頃のノートを見返すと、もちろん今もそうなのだけれど、口調というか文体というかそういうものがふよふよしていて、ちょっといやだなと思う。ふよふよしていることはむしろ僕のアイデンティティと思って憚らないぼくですら、ちょっといやだな、と思っている。だたそう思うということは、最近の僕の文体は気に入っているとう証左なのだろう。)
13年前は何もかも違った。
本も読んでいなかったし、将棋もしていなかった。
おそらく一人称は俺だった。ある時期から僕に変わった。
これは意識していたことだったのだけれど、それを続けていると意識自体が変わってきていた。当時はある種の処世術だったのだろうけれど、俺は僕が気に入った。
その人称代名詞の変更がどこまで自分に影響を及ぼしているのか、そしてこれを書いていて思ったけれど、僕の次に自分という表現も自分は好きだなと小さい発見をした。
そんなことを考えていると、7分ほどでまた1000文字にたどり着いてしまった。また明日。おやすみ世界。

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