なりたい自分なんて居ないんですが、それが?

なりたい自分になりたいと思っていたが、問題は何になりたいかということがわからない、ということだった。

正確には、いろんなものになりたがっていた。
ただ、そういうことに何か責任を取らされそうな、そんな気配だけは察知していた。
何かになりたいと言っている人は、それに向かって努力をしている。何かになりたいと努力している人は、そういうだけの才能に恵まれている。
そんなことを小学生のころからうっすら考えていた。
だから、というわけではないけれど、僕にはあこがれの仕事というものはなかった。将来の夢というものも。

今思うとそれは当然のことである。
第一根性や頑張るといったことで何もなす必要はないのである。
ちょっと漫画とか、アニメとか、そういう影響を色濃く受けすぎたのだろう。スポコンでもない。
今はなんだろう、エッセイストになりたいな、と思う。
文字にしてみるとちょっと面白い。
でも、それを根拠づけているのがこの毎日10分少々の時間で書いているnoteである。僕はもう十分エッセイストだといえる。
そういうものでいいと思う。

将来の夢というのは何かゴールめいたものでもないし、正しさにあふれているわけでもないとおもう。なんとかやりくりをしていく、ということがそこには必要不可欠であって、その中にはもちろんうまくいかなさやなさけなさみたいなものも多分に含まれる。
むしろそういったものを認めなければ、謙虚とやらの姿勢も確保できない。失敗しないために謙虚になるわけではなく、失敗するということを引き受けることにおいて、謙虚さが発揮されるわけである。
謙虚でないまま行動して失敗してもいいのである。謙虚とはそんなに度量の小さい概念ではない。

研修に行ったときに、謙虚にならなければならない、と教えられた。
僕は今でもそれは間違っていると思う。
謙虚になるという行為そのものが、謙虚とは対極にある。
謙虚というのは、自分の不確実性に対して、必要以上にビビることなく、挑戦しそしてその結果を引き受ける姿勢ではないのか。

ということで、僕はこのように謙虚に対して云々する手合いが嫌いなのである。こんなに反発を覚えてるということもなかなか珍しいけれど、実際そうなのだから、しかたない。
こういう開き直りもまた人生において必要であり、僕の名前を付けた祖父に似てしまっているところなのだろう。開き直って生きていく。

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