私が自分の発達障害(ASD)を知るまで 〜逃亡少女時代篇〜

 ハローこんにちは。なまむぎなまこです。
 3回目の記事更新になります。そろそろ、ノートさんの使い方をマスターしたいところです。まだダメそうです。気長にお付き合いください。申し訳ない。

 今回は「逃亡少女時代篇」ということで、なんかちょっとかっこいいタイトルになりましたね。内容は全然かっこよくないのですが。ではやっていきましょう。

 小学校二年生ぐらいまでやっぱり鈍臭いアホの子で、どことなくいじめられがちなままでしたが、それは小学二年生で終わりました。というのも漫画に出会ったから。前にも言いましたが、ASDの私は白紙のような状態でして。読んだもの見たものはなんでも吸収するんですが、書いてないこと言われていないことを暗黙のうちに了解するということが出来なかったんですね。

 逆に言えばそれは、書いてあることはなんでも取り入れることができたということでもありました。今でも当時に読み込んでいた詩集や漫画の類は鮮明に覚えています。
 で、どんな漫画だったかと言うと。『ときめきトゥナイト』って、皆さんご存知ですかね。ひー恥ずかしい顔から火が出そう。その漫画に出てくる、ヒロインと敵対する現役アイドルの中学生の女の子がいまして。彼女は最初猫をかぶっているんですが、ある日ブチ切れて言うんですね。「今まで我慢してたけど、これからは言いたいことを言わせてもらいますからね!」
 もうね、雷に打たれたような衝撃でした。
 そうか!言っていいのか!と。性格が少女らしくなかなか悪い敵役の可愛い女の子。猫被りをやめてヒロインの好きな男の子に猛アピールをかけていくようになる、きりっとした美少女。ヒロインじゃなくて敵ヒロインに憧れるあたり性格がねじくれていますね。でも当時はかっこよく見えたんですよー。
 で、…お恥ずかしながら、私も言ったんですよね、このセリフを。そっくりそのまま。教室で。いじめてこようとした男子たちに。
いやあああ恥ずかしいいいいい!!!やめてやめてやめていやああああなんて痛いやつ!!!許してください!!いやーーー!!!!!顔から!火事!!!

 兎にも角にも、結果的に、それ以降私は自分の心のままに振る舞うようになりました。嫌だと思ったことには反論するし、殴られたら殴り返す。なにか枷のようなものがひとつ外れて、もっとひどい目に遭う、ということは不思議とありませんでした。堂々とする、ということをこの時期に学んだような気がします。堂々としていれば大体のことはごまかせる、とも。笑
そんなわけで、脱いじめられっ子は果たしたわけです。じゃあ何から逃げていたんですか、という話ですが。……さんすうとたいいくとおんがくですねー。

 さんすうは、まず時計が読めない。お金がわからない。長い針が3を指したらなんで15分になるの??どうして?誰がそう決めたの?ここで引っかかって先に進めません。108円ってどう書くの?100と8を両方書いたら1,008円でせんはちえんになっちゃうの??どうして??もうパニックです。「いいから先生の言う通りにしてなさい」がASDには通じません。

 自分の中で解決されないことが気持ち悪くて、もう生理的に受け付けなかったのです。
 ルールに納得できないわけですから、理解もできない。「先生がそう言うんだから」「教科書に書いてあるでしょ!?」
 通じません。腑に落ちません。公式の意味がわからなければ次に進めず、私はいつまで同じところでうんうん悩み続けていましたが、当然ながら授業はおかまいなしに進んでいきます。はじめの階段でつまづいたまま次の階段に登ろうとしてもダメです。物理的な限界が生じます。数学は本当に積み重ねが大切な教科ですね。
 今でも数学は壊滅的にダメです。残念ながら。いや今は単位とか時計とかちゃんとわかりますよ!

 たいいくなんですけれど、もうこれはしょうがない。相性が悪すぎる。走ればビリ、跳ねれば倒れ、ボールは何やらせてもボーリングに。ハードルはなぎ倒し、跳び箱は跨がり、もう歩くしか選択肢がない。歩いていても転ぶ。
 そう、後からわかることですが、私の運動性IQは100もありませんでした!これはというと、著しく平均を下回っている数値なわけです。いかに私にとってたいいくが天敵であったか、なんとなくお察しいただけたでしょうか。ついでにいうと家庭科もダメで、これも運動性IQが低いためです。指先から足の裏まですべての運動神経がにぶくてしょうがないわけです。折り紙すらダメ。折り鶴が折れるようになったのは大学生になってからです。
 そんなわけで、この障害のために絶望的なまでに体が思い通りに動きません。健康なのに。指示されたことはわかるのに、体がその通りにどうしても動かない。これはもう、完全に発達障害のせいだもん。わたしわるくないもん。(たくさん怒られたので拗ねております)
 ちなみに今でも普段から部屋のドアやら棚やらにぶつかり放題です。転ぶのも人一倍多いですね。2年前に平面で転んで靭帯やっちゃいましたもん。平面で転ぶってどういうこと。ちなみに体育教師に嫌われすぎて、つむじを覗きこまれながら「おまえつむじが二つないか!?二つあるやつはろくなやつにならんぞ!」と言われましたが、まあその通りになりましたね。

 で、おんがくですよ。これは遺伝のせいだもん。わたしわるくないもん。両親ともに音痴だったので、私は音痴のサラブレッド。走らせたらそりゃ期待通りになりますよってものです。音が取れない。リズムって何?鍵盤ハーモニカもリコーダーもとことんダメでした。音楽で居残り補習なんて私以外にいませんでしたよ。一応努力はしたんですよ……。ただ合唱はもう打ちのめされていたので、全部口パクで済ませました。「男子ちゃんと歌ってー!」と女子の群れが怒る一方で、私はちゃんとやってるフリしてやってない女子でした。申し訳ない。

 小学校の頃はなんだかんだ授業には出ていました。いやいやながら。いつ頃から授業を抜け出し始めるかというと、中高一貫校に上がってからです。そう、私は人数の多い小学校で完全に人疲れし、中学受験組にあいなったのです。そしてその学校の方々に見る目はなかった!ラッキーなことに!やったね!おかげさまで無事、騙せおおせました。あとテストではなく作文と面接だったのが大きかったですね。作文は大得意でした。面接は大人を軽蔑しきっていたので、賢そうに見えたのが良かったみたいです。何せ心を閉ざしていますから。いやなやつ!
 中高一貫校の方々も、まさか逃亡癖がのちのち現れる少女がやってきたとは思わなかったのでしょう。そんな子がかつていなかったというのもあります。新設されたばかりの自称進学校で、とにかく真面目そうに見えれば採っていたような気がします。ものすごく薄味の顔が役に立ちました。和顔って真面目そうに見えますよね。やったぜ。

 さて、この学校が新設されたばかりだということはお話ししました。つまり、学校の隅から隅まで知っている先生がほとんどいなかったのです。先生ってお忙しい職業ですしね。 しかも校舎自体は古いものを改修したものですから、あちこちに使われていない教室があったわけです。つまり学校は私にとって探検しがいのあるダンジョン!ミッションは苦手教科の時間に身を隠すこと!先生に見つからずに!今日はどこに隠れよう?と完全に目的の違う生徒が、その学校には紛れ込んでおりました。

 ちなみに女子トイレに隠れて三回見つかりました。みなさん、トイレは隠れ場所に不向きです。ホラー映画でもトイレは見つかるのが定石ですからね。
 更に、保健室にこもるとお迎えの先生が来るという厚遇ぶり。一度、迎えにきた先生に従うふりをして階段の踊り場に差し掛かったところで身を翻し、猛烈に駆け下りて撒いたこともありました。先生は「なまむぎが消えた」とクラスの皆さんに語ったそうです。
 ただし仮病は使わず、「次の時間は出るので休ませてください」とか「英気を養います」とか「先生に会いたくて」とか適当こいて保健室に入り浸っていました。余計悪いわ。でもなぜか「なまむぎは仮病を使わないから偉いな!」と担任に褒められるようになります。他に褒めるところもなかったので…。

 トイレに行ってから戻ります、と言って先生をトイレの前で待たせ、トイレの窓から庭に降りて大脱走したこともありました。なにしてるんですかね。
 先生方には、心の底からご迷惑おかけしましたことをお詫びいたします。本当に反省しております。

 学校嫌いの皆さん、学校なんて適当ーに行っておきましょう。出席だけギリギリでも足りてればいいんですよ。親御さんもそんなに怒らないであげください。ほとんどの子は学校なんて面倒くさいと思っていますから。

 カバンに着替えを詰めて家を出て、駅で着替えて遊びに行ったこともあります。当然家族に連絡がいきますが、我が家は「ああそうですか、なにやってんだか」ぐらいの対応で特に事情も聞かれなかったのがまた私の逃亡癖には良くなかった。私自身はエンジョイしていましたが、親としてはどうなんでしょう。今更言ってもしょうがないことですが。

 なんでそんなに苦手教科に出席するのが嫌だったかというと、わからないことはつまらないからです。ついていけないことを強制されることは苦痛だからです。何より人生を舐め切っていました。「別に明日死ぬかもしれないし」と無駄にロックに生きており、学校の勉強というものにやりがいを感じていませんでした。無駄に高いプライドが「努力したところでできないこと」に傷つけられるのを恐れていたからでもあります。どうせ出来ないことがばれたら100回やらされる訳ですし、だったら最初からやらない方がマシです。
 そもそも私は、中高生になっても「なぜ勉強するの」の疑問が解消されない、不文律を理解できない発達障害児童のままでした。自称進学校に通う生徒としては、なかなか致命的です。

 周囲とのギャップを感じ、「どうしても出来ないこと」に目を背け続けていた私ですが、逃げている間は楽しくても、逃げ終わると虚しさに襲われました。結局のところ苦手科目が消えて無くなってくれるわけではなく、私が成長できたわけでもありません。ゲームにだって、「にげる」のコマンドはあります。だけど、「にげる」を使うと経験値は貯まらないのです。時には「しかし回り込まれてしまった!」なんてことだってありました。というか、すべての教科から完全に逃げ出すなんてことは人生において不可能です。周囲が歯を食いしばって立ち向かっていく中、私だけがレベル1のまま「にげる」を選び続けていた学生生活でした。そもそも、私が勝手に怯えて敵だと認定していたものは、本当は私を成長させてくれ選択肢を増やしてくれるはずのものだったのです。

 家に帰って、深夜にアームカットをしていたのもこの頃です。数学の問題集を開いたまま、「今日こそはやるんだ」と思いながら、でもどうしても解けない問題に嫌気がさして、けれど眠るのも嫌で、眠気覚ましとして腕にカッターを突き立てていました。ええ、努力はしてたんです。できるようにはなりたかったんです。でもダメでした。傷ばかりが増えてしまいました。誰にも見せなかったので、正直SNSに自傷画像を上げる方の気持ちはわかりませんが、自傷行為、やめましょう。何の得にもなりません。私もやめました。

 ありがたいことには、この学校はたいへん保守的で私のような問題児にも呆れながらも大ごとにはしませんでした。なんというか、私の家庭には向かなかった反抗期を受け止めてくれた存在でした。こんなにありがたい学校もなかなかないですね。学校からしたら迷惑極まりなかったと思いますが。そしてクラスメイトは、半ば私を奇異の目で見ていましたが、6年間も一緒にいると「そういうキャラ」として受け入れてくれ、自然に対応してくれていました。陰口を言う人はもちろん居ましたが、幼稚園で受けたいじめに比べればなんてことはありませんでした。文化祭のクラスアンケートで「神に近い人」というランキングでぶっちぎりの一位をなぜか獲得出来ましたので、人間扱いされていなかったのかもしれません。あとは「国際結婚しそうな人」ランキングでも一位でしたので、「日本から出て行け」ということだったのかもしれません。
 まあ、なんというかいろんな意味で良い友人ばかりでした。今でも同窓会が盛り上がるのは、中高6年間という人生で最も痛々しい時期を共に過ごしたという絆がそうさせるのでしょう。なかなか楽しくはあった十代の学生時代でした。

 でも、そんなに勉強しなくて大丈夫なものですか?
 大丈夫でした。私の進路はあらかじめ親に決められていましたから。祖母の家がある地方国立大学です。大してレベルは高くありません。でもそこに行けば家計は大助かりです。家賃光熱費その他諸経費がかかりませんから。なぜ反抗しなかったのか、土下座してでも自分の行きたい大学に行かせてくれと頼めばよかったのに、突出していた国語のおかげで合格していたそれなりのレベルの大学もあったのに、私は希死念慮にとらわれていました。自分の進路なんぞ心の底からどうでもよかったのです。介護要員として行ったこともない地方に行けと言われるのなんて、「どうせそのうち自殺でもするから別にいいか」ぐらいの気持ちで引き受けました。自分のことが心底嫌いでした。もういじめられっ子ではないのに、出来ないことがあるというだけで自分のことをいくらでも傷つけられましたし、傷つけられても平気でした。話し合いがないことにも慣れっこです。他人だったら簡単に聞けたでしょう、「本当にそれでいいの?」と。

 さて、次回のタイトルは「それでいいのか大学生篇」です。
 周りから「なんか変な子」と思われながら、殻にこもっていたわりにはまあまあ上手くいっていた小中高時代はこれにて終了し、次回の「それでいいのか大学生篇」でお会いしましょう。とは言え大学生篇の中に中高時代の回想もちょいちょい入るやも。
 次回ようやく「もしかして、私が変なのって?」と何かに気づき始めます。まだ診断には至りません。次次回くらいで診断される、はず。

 それではまた。
 気まぐれ更新にお付き合いください。ではでは。

なまむぎなまこ 拝

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