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【小説】星へ(第29回電撃小説大賞応募)


約19,000字
第29回電撃小説大賞で三次通過(四次選考で落選)した物語です。
書いている間、自分自身がずーっと楽しくてわくわくした思い出の小説です🌌


    ★

 土曜日の午後二時。あの頃よく通っていた定食屋で、一人テレビを眺めている。

 入り口以外に窓がないからか、店内全体が日陰に入っているように薄暗い。昼時の混雑も終わり、客の姿はまばらで、厨房からは食器を洗う音が聞こえてくる。

「ご注文はお決まりですか」

 水の入ったコップをテーブルに置きながら、アルバイトらしき若い女性が私に訊ねる。

「あ、いや、これから僕の友人が来るので。それまで待っていても構いませんか」

 私は目線で二人掛けの席の向かい側を示した。

「ああ、はい。かしこまりました」

 アルバイトの女性はフランクに頷いた。ありがとう、と私も微笑む。

 彼女が他の客に呼ばれて去っていくと、私はまた正面のテレビに視線を戻した。

 画面には、テレビ局を代表する人気アナウンサーの横顔がアップで映っていた。対談形式のインタビュー番組をやっているようだ。

 対談の相手は宇宙飛行士の日野航だった。彼は、国際宇宙ステーションでの三か月に及ぶミッションを終え、二週間前に地球へ帰還したばかりだった。ちょうど日本に一時帰国しているタイミングで、最近テレビでよく見かける。

 テレビのなかの日野航は、時おり屈託のない笑顔をみせながら、素直な言葉で受け答えをする。ゆるくパーマのかかった髪に整った顔立ちも相まって、ブルースーツを着ていなければ俳優やアイドルと勘違いしてしまいそうだった。若い女性に人気があるというのもうなずける。

 日野航は、機械工学の修士課程を修了し、大学院卒業後は航空会社のエンジニアとして働いた。入社して四年目の夏に開催された宇宙飛行士選抜試験を受験し、見事に合格。アメリカで数年間にわたる訓練を重ね、自身初の宇宙飛行を実現させた。

 今回のミッションでは、国際宇宙ステーションの太陽光パネルを修復するための船外活動も無事に完遂した。無重力空間での実験映像や地球の姿を投稿した彼のSNSは、日本の若者にもとても人気になった。

 しかし、ミッションも終盤に差し掛かったころ、世界的なニュースにもなった、あるハプニングが起きた。

 日野航と一緒にアサインされたクルーのひとり、メアリー・トーレスが体調を崩し、眠ったまま目を覚まさなくなったのだ。彼女の診断と治療を優先し、クルー全体の帰還が前倒しとなった。ただ、その決定の直後に彼女は目を覚ました。合計でおよそ四十六時間眠り続けていたらしい。帰還の日程は早まったままとなったが、その後の彼女の体調に大きな異常はなく、慣れない環境下での疲労とストレスが原因だったのだろうということで、表向きには落ち着いた。

「日野さんが宇宙飛行士を目指したきっかけというのは、何だったんですか?」

 テレビ画面の向こうのアナウンサーが、強い光を宿した瞳で日野航を覗き込む。

「きっかけは…」と日野航は顎を撫でる。

「クジラ、ですかね」

 彼はアナウンサーと目を合わせてそう言い、いたずらっぽく笑う。

「クジラ、と言いますと?」

 アナウンサーはわざとらしく眉間にしわを寄せ、身を乗り出す。画面が日野航のアップになり、彼が口を開こうとする。

 そこで、私の視界は人影に遮られた。

「よお、真司。待たせたな」

 向かい側の空席に腰を下ろしたそいつは、あの頃と変わらない口調で私の名前を呼んだ。十三年ぶりとは思えないほど、あっさりとした再会の瞬間だった。

「ああ、久しぶり」

 私のほうは、さすがに少し緊張していた。

 テーブルの横を通った店員が、テレビの画面と彼の顔を見比べて二度見する。それを気にする様子もなく、当の本人は「注文いいですか?」とメニューを開く。

「真司は? 何食べる? やっぱ俺はチキン南蛮かなー」

 その無邪気な笑顔につられて私も思わず、肩の力が抜ける。彼の頭の中が「腹減った」でいっぱいになっているのが手に取るように分かっておかしかった。

「僕も、チキン南蛮食べようかな」

 さっきまで生姜焼き定食を頼もうと思っていたのに。いつも私は、気が付けば彼のペースに巻き込まれている。だが、それが嫌ではない。

 ブルースーツを着ていても、テレビカメラの前にいても、定食屋にいても、気取らず飾らず何も変わらない。

 いま私の目の前にいる日野航とは、そういう男だ。


    ★


 私たちが出会ったのは、二人とも二十歳になったばかりのころだった。

 当時通っていた大学の図書館に、グループ学習や打ち合わせに使用できるスペースがあり、航と私はそこの常連だった。長い間、会話はしないが顔を認識している程度の関係だった。

 航はいつも、ホワイトボードに書き込まれた、なにやら複雑な数式や図形を見ながら仲間とディスカッションをしていた。一方の私は、窓際におまけのように付け加えられた個人用のテーブルで、ひとり論文や本を読み漁っていた。

 だいたい夕方の六時くらいになると、航のチームの誰かが「飯行く?」と言い出して、みんなぞろぞろとフリースペースを出ていく。私はそれを時報代わりに、そろそろ帰るか、と少し間をおいて立ち上がるのが常だった。

 その日も、航たちの一団が去っていくのを背中で聞きながら、私は借りた文献や筆記用具を片付けていた。話し声のかたまりが廊下のほうへ遠ざかっていくなか、ふいに、後ろに誰かが立ち止まるのを感じた。

 イヤホンを外して振り返ると、キャップを後ろ前に被った男子学生がいた。航だった。

彼は、私のノートパソコンの画面をじっと見つめていた。もちろんその時には、互いの名前も学年も知らない。

 私と目が合うと、航は焦ったように「あ」とつぶやいてキャップのつばに手をやった。それから、「ごめん、つい」と人懐っこい笑顔をみせた。私は「いや、全然」とかなんとかもごもご言ったと思う。

「二年だよね? 入学式のとき、見かけた気がする」

 航のその言葉で、私たちが同学年だということを知った。

「いつもここでめちゃくちゃ本読んでるから、すげーなって思ってたんだ。レポートかなんか?」

 航は、私との距離感を探るように、しかし親しみが込められた声色で訊ねてきた。

「うん、それもあるけど。なんか、他にも知りたいことがいっぱいあって」

 私は気恥ずかしくて、曖昧な返事しかできなかった。

「へえ。すげーな。俺なんて、いつも嫌々勉強してるのに」

 航は目を丸くして、すぐに眉間にしわを寄せた。

 くるくると表情を変える彼がおもしろくて、私の表情も自然とほぐれた。そのおかげで、二人の間に流れていた空気がふわりと柔らかくなった。

 そこでふと、航が私の背後にあるノートパソコンを指さした。

「クジラ、好きなの?」

 その質問でやっと航がここに立ち止まった理由が分かった。私のデスクトップの背景が、ザトウクジラの画像だったからだ。

「ああ、うん。めっちゃ好き」

 私が頷くと、航は目を輝かせて「マジか、俺も」と満面の笑みを浮かべた。

 私はマウスを操作して、デスクトップの画像を長押しした。そうするとザトウクジラの鳴き声が流れるように設定していたのだ。

「ソングだ」とつぶやいて、航はじっと耳を澄ました。

「生で聴けたらいいのにな」

 私がそう言うと、航は「じゃあ俺は、クジラと一緒に歌っちゃおうかな」と鼻の穴を膨らませた。

「何だよそれ」

 私が声に出して笑い、航も笑った。私たちの心が触れ合った瞬間だった。

 それから、航は仲間と合流して夕飯を食べに行った。

 彼と別れた私は、わけもなく自転車を立ちこぎしてアパートまで帰った。あの日、全身で受けた風の心地よさは今でもよく覚えている。


    ★


「お待たせいたしましたー」

 背後から店員の声が聞こえ、私の前に大皿や茶碗がのったお盆が差し出された。甘酢のいい香りが空気を支配する。

 向かいに座っている航も、「どうもー」と両手をのばしてお盆を受け取る。

 私たちは手を合わせてから、メインの皿へ箸を伸ばす。

「うまいっ」

 航が白米を口に詰め込みながら言う。しばらくの間、二人とも会話を忘れ、夢中になって食べ物を口へ運んだ。

「ヒューストンにはいつ帰るんだ?」

 私はチキン南蛮の一切れを箸でつかみながら訊ねた。

「明日の朝だよ」と航が味噌汁を飲みこむ。

「そうか。忙しそうだもんな」

 私はつかんだチキン南蛮の一切れを口元へもっていく。テレビはバラエティー番組の再放送に変わっていた。

「まあな。人並には忙しいかもな。真司は? 仕事、どうなんだよ」

 航の質問に、私は答えに詰まってしまう。どうなんだろう。私の仕事は。

 チキン南蛮を咀嚼しながら考える。

 大学を卒業した後、私は地方公務員になった。収入に関しても待遇に関しても、これといった不満はない。自分からドロップアウトしなければ定年までの生活は確実に保証されている、安定した仕事だ。だがそれは、裏を返せば無理に努力しなくてもそれなりの生活を送れるということでもある。私でなければ成し遂げられないような業務なんてひとつもなく、むしろ業務の特性上、いつでも誰にでも代わりが出来なければいけない仕事ばかりだ。

 そのせいだろうか。就職してからずっと、自分の仕事に対する使命感や誇り、やりがいといったものをほとんど感じたことがない。

 私は一体、何のために…。毎日、ついそんなことばかり考えてしまう。

 口の中のチキン南蛮がなくならないうちに、白米を詰め込む。

 いや、本当はわかっている。仕事の内容や業務の特性のせいじゃない。腐っているのは私のほうだ。

「まあ、なんとかやってるよ」

 チキン南蛮と白米を飲み下して、結局何の答えにもなっていない答えを発する。

 国を代表して活躍する宇宙飛行士の前で、こんな私のことなど話せるわけがない。卑屈になって航の目を見られない自分が情けなくて、ますます顔を上げることが出来なくなる。

 額のあたりに、航からの視線を感じる。

「なあ、真司」

 そう呼びかけられて、私はようやく正面を向いた。

 航は白米の最後の一口をかきこみ、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。その後で、真っすぐに私の目を見つめた。

「一緒にさ、星をとりに行ったときのこと、憶えてるか?」

「ああ、うん」

 私はなんとなく、航が言っているのがいつのことなのかが分かった。

「バイト終わりに、真司が急に電話かけてきてさ」

「そうだったっけ? よく憶えてるな」

 私の言葉に、航は「当然だろ」と笑う。その笑顔を唇の端に残したまま、どこか遠くを眺めるような目つきになる。

「あの日、俺の人生が変わったんだから」


    ★


 確かあれは、私たちが三年生の年、大学が夏季休講に入ってすぐのことだった。

 待ち合わせ場所だった大学の最寄り駅で、先に待っていた航は、私の姿を認めると「ああ、なるほどな」と言った。よく晴れた空は徐々に夜の群青色に染まり、西側の低いところだけがまだ白っぽく明るかった。

「星をとりに行くって、写真のことか」

 航はそう付け足して、私が首から下げていた一眼レフカメラを指さした。それは大学に入学してすぐに、叔父のお下がりを譲ってもらったものだった。いじり方を覚えたため、腕試しに星空を撮影してみようと思い立って、航を誘ったのだ。

「よかったよ、俺、虫取り網とか持ってこなくて」

 航が真剣な表情をして言うものだから、私は思わず吹き出した。

「ごめん、僕も言葉足らずだったけど、その発想になるのは航だけだと思うよ」

「俺、けっこうロマンチストだからさ」

「そういう問題なのかな」

 私たちはバスに乗って、街の中心から外れた公営のキャンプ場へ向かった。県道に面した山林の一部を切り拓いた、駐車場と仮設トイレがあるだけの、利用料もかからない小さなキャンプ場だった。

 目的地に着いたときにはすっかり日も暮れていた。平日の真ん中だったこともあり、私たち以外に客の姿はなかった。

 ちょうど新月の日で、頭上に目を向けると思ったよりもたくさんの星が見えた。

「おおー、すげえ」

 航の声が、暗闇のなかに浮かんだ。

 私たちは街灯の光の影響を避けるため、なるべく県道沿いの入り口から離れることにした。足元をスマートフォンのライトで照らしながら、広場の奥のほうまで進んだ。斜め後ろを歩く航の息遣いや、草を踏む音が聞こえていた。

「この辺でいいかな」

 県道の街灯や車のヘッドライトに邪魔されず、樹木に景色を遮られない場所をみつけ、荷物を下ろした。

 三脚を立ててカメラをセットし、光の取り込み方やシャッター速度を設定する。私があーでもないこーでもないと言いながら写真を撮影している間、航は文句ひとつ言わずに待っていてくれた。いや、正確には「蚊、多いな」ぐらいの不満は漏らしていたかもしれない。

 星空の撮影にひととおり満足した私は、あおむけに寝転がっていた航の横に、足を投げ出して座った。

「おお、終わったか」

 航がこちらに顔を向ける気配がした。

「うん、満足した。付き合ってくれてありがとな」

 私が答えると、大したことねーよ、と航はまた星のほうに顔を向けた。

「もう、帰ってもいいけど」

 航が動き出す様子がなかったため、私はそう声をかけた。

「もう少しここにいようぜ。真司もレンズ越しじゃなくて生でゆっくり見ろよ、星」

 私は「それもそうだな」と、航の隣に寝転んだ。

 地面に頭をつけると、脳みそのなかに詰まったもやもやが、地球に吸収されていくような感じがした。視界が、真っ暗な空とそこに輝く無数の小さな光の粒で埋め尽くされる。そのあまりに途方のない星々の数と宇宙空間の広がりを思うと、そのまま重力の届かないところまで身体が吸い上げられていくような気がした。

「なんかさ、星空を眺めてるときの感覚と、海に浮かんでるときの感覚って似てると思わないか」

 唐突に、航が言った。

 正直に言うと、私はカナヅチのため、海に浮かんだ経験はなかった。

 それでも、例えば太平洋のど真ん中にひとりぼっちで浮かんでいるときの気持ちと、地球から遠く離れた宇宙を漂う感覚は、もしかしたら似ているのかもしれないなと思った。

「寂しいかもしれないけど、それ以上にきっと穏やかな気持ちだろうな」

 私の返答に航は何も言わなかった。しばらく、二人とも黙って星を眺めた。

 その時ふと、私はクジラの歌のことを思い出した。おそらく、航が海の話をしたからだろう。

「なあ、ザトウクジラの歌が宇宙を旅してるって、知ってるか?」

 私の質問に、航は「何それ、知らない」と好奇心が滲んだ声を出した。

「ボイジャーに積んであるゴールデンレコードに、ザトウクジラの鳴き声が収録されてるんだよ」

 私が答えると航は「何ジャーに積んである、ゴールデン何だって?」と、おそらく眉をしかめた。私はその言い草に思わず笑い、「ボイジャーのゴールデンレコードだよ」ともう一度言った。

「ボイジャーっていうのは、一九七〇年代に打ち上げられた無人探査機のことで、木星とか土星とか天王星とか、太陽系のなかで地球よりも外側を回ってる惑星の様子を調べるために、計画されたんだ。ボイジャーは、今はもうとっくに太陽系の外に飛び出して、この瞬間もどんどん地球から離れて宇宙空間を旅してる」

「へえ。それで、なんでそのボイジャーに、ゴールデンレコード? ザトウクジラの歌が積んであるんだ?」

 航の質問に、私は前のめりになる。実際にはあおむけで寝転んでいたから、前のめりになったのは気持ちだけだ。

「うん、本当はクジラの歌だけじゃなくて、鳥の声とか風の音とか波の音、あとは人間の色んな言語でのあいさつとか、そういう地球の音がたくさん、ゴールデンレコードには収録されてるらしいんだ。音だけじゃなくて、人間の生活の様子を移した画像とか、時間の概念を示した数式のイメージなんかも一緒に。目的は、もしもそのレコードを解析できるような地球外生命体がボイジャーの進む先にいたときにこの星のことを知ってもらうため、なんだって」

 私が言いきると、航はふっと息を吐き出して笑い、「おもしれー」とかみしめるように言った。私は航のその反応がとても嬉しかった。

 航は続けて言った。

「なんていうかさ。分かってるつもりだったけど、地球って、すごく豊かなんだな。それを象徴するためにザトウクジラの歌が選ばれてるってことが、なんか、誇らしい気がする」

 その言葉を聴いたとき、共感の熱が湧き上がってきて私の胸を埋め尽くした。

「僕は、ゴールデンレコードをつくろうと思ったひとは、その目で宇宙から地球を見た人に違いないって思うんだ。だって、このゴールデンレコードのなかでは、どの人種も文化も、生き物も自然も、対等に扱われてる。ここに地球があって、しかもこんなにたくさんの種類の命が生きてて、それに思いを馳せて、他にもこんな星があるんじゃないかってわくわくできる僕たちがいるっていうことがどれだけすごいことか。ゴールデンレコードをつくって遠くの宇宙へ届けようと思った人がいるっていうことが、僕はすごく、…嬉しかった」

 私はいつにないくらい勢い込んで話し、航もまた同じくらいの熱量で話を聴いてくれていた。

「真司は、ゴールデンレコードの音のなかでどれが一番好きとかあるのか? ザトウクジラ以外で」

 航の質問に私は迷わず、モールス信号の音、と答えた。

「僕は、このモールス信号だけは異星人に向けられたものじゃないと思うんだ。ボイジャーに込められた人間の願いっていうか、旅のお守りっていうか、そういうものなんじゃないかって。だから気に入ってる」

「うん?」と航が相槌を打つ。

「このモースル信号をアルファベットに直すとね、〈Ad Astra Per Aspera.〉っていうラテン語の一文になるんだ」

「アド、アストラ? どういう意味だよ、それ」

 草の擦れる音がして、航が首を傾げたのがわかった。

「うん。英語に訳すと、〈To the Star Through the Hardship.〉」

 私が答えると、航はつぶやいた。

「苦難を越えて星へ…」

 それまで「へえ」とか「なるほど」とか大袈裟なくらいにリアクションをしてくれていた航が、急に押し黙った。

 どうしたのだろうかと航のほうに顔を向けると、航は唐突に上半身を起こした。

 そして、

「真司、俺」

 と私に呼び掛けた。

「ん?」

私は寝転んだ格好のまま、航を見上げた。

 航は、私の目を見ていた。辺りは変わらず暗闇だったのに、なぜかそれだけは分かった。もしかしたら、航自身が発光していたのかもしれない。

「俺、決めた。宇宙に行くわ」

 航は、そう宣言した。

 その時、彼の背後には果てしない星空が広がっていた。


    ★


「俺はあの瞬間に、宇宙飛行士になるって決めたんだ。何の根拠もなかったけど、俺は絶対に将来宇宙に行くって、そう思った」

 定食屋の向かいの席で昔話をする航の姿は、あの頃からまったく年老いていないように感じる。私は、彼の目にどう映っているのだろうか。

「そう言って、本当に宇宙に行っちゃうんだからな。すげえやつだよ、航は」

 本心からの言葉だった。

「全部、お前のおかげだよ」

 航の返答に、私は本気で首を振った。

「それは違う。全部航の実力だ。『君の夢が叶うのは誰かのおかげじゃないぜ』って、the pillowsも歌ってるだろ」

 お皿下げちゃいますねー、と店員がテーブルの上を片付け始める。

 航が「ピロウズ俺も好き」と笑ったあとで、真剣な顔に戻る。

「真司はそう言うかもしれないけどさ、やっぱり、あの日までの俺とあの日からの俺は、本当に別人なんだよ」

 航の声に耳を傾けながら、私はコップの周りについた水滴をしきりに指で拭っていた。

「実は俺、高校に進学するときも大学に行くときも、自分で決めたっていう感覚がなくてさ。なんとなく、親が反対しなさそうだからとか、普通だったらそうするだろうとか、そういう基準で全部選んでた。就職先だって、無難なところに絞って就活するんだろうって。夢なんて、持ったことなかった」

 ごゆっくりどうぞー、と片づけを終えた店員が去っていく。航は話を続ける。

「そのくせ、ずーっとつまんねえなって思ってたんだ。親の考えも教師の言うことも、同級生の将来設計も。なんなら、これから俺が生きていく社会とかそういうものが、何もかも全部つまんねえもんだって思ってた。こんな世界で生きる意味ってなんなんだろうって、本気で」

 私は手元に視線を落としまま、黙って航の声を聴いていた。

「でもさ、あの瞬間、宇宙に行くんだって思ってから分かったんだよ。結局、いちばんつまんねえ存在だったのは、俺だったんだ」

 痛い、と思った。航の言葉が私の心の、ずっと向き合うことを避けてきた部分に突き刺さった。

「つまんねえ俺を越えて宇宙に行く。そうやって自分に言い聞かせ続けて、俺はここまでやって来れたんだ」

 私はコップを握りしめたまま、何も言えずにただ二、三度頷いた。

 だけどやっぱり、宇宙に行くという目標を実現できたのは、航が航だったからだ。自分の決断を信じ続けたこと、目標を実現するためのチャンスを確実にものにしてきたこと、そのために努力を怠らなかったであろうこと。誰にでもできることじゃない。

 航がコップに残った水を飲み干し、伝票を手にして立ち上がる。

「もう少し、外で歩きながら話そう」

 そう言ってレジに向かう航を、一歩遅れて私が追いかける。

 レジの前でお釣りを受け取るのを待つ間、航が私に訊ねてきた。

「カメラ、今もいじってるのか?」

 私は咄嗟に、「いや、今はもう」と返事をした。その後ですぐに、しまったなと思う。

 航は「そうか。お前の撮る写真、好きだったんだけどな」と頷く。

 何気なく放たれたその一言に、私は俯いた。

 初めてふたりで星を撮りに行ったあの日以来、私は写真の魅力に取り付かれ、何度もカメラを片手に出かけるようになった。ひとりのときもあれば、航を誘うこともあった。カメラに収めたのは、ほとんどが雲や朝焼け、星や月など空で起こる自然現象だった。たとえ同じ場所、同じ時間に見上げたとしても、毎回違った表情を見せてくれる空に夢中になった。その無常の美しさを記録できるカメラは、私にとって最高の相棒だった。

 航は、写真をSNSに投稿したりコンテストに応募したりすればいいのにと、度々勧めてくれたが、私は現像した写真を自分で楽しんで、たまに航がリアクションをくれればそれで十分だと思っていた。今思えば、誰かに評価を下されることが怖かっただけなのかもしれないが。

「お待たせしました、二二〇円のお返しです」

 店員の声がして、航がレジのほうに向き直る。その背中を見ながら、私は小さな罪悪感を持て余した。もうカメラをいじっていないというのは、嘘だ。


 クローゼットの奥で埃をかぶっていたカメラを数年ぶりに引っ張り出してきたのは、航が国際宇宙ステーションのミッションにアサインされたことを知ったときだ。国際宇宙ステーションは、タイミングをつかめば地上からも肉眼で観測することができる。うまくいけば、航が載っている国際宇宙ステーションを写真に残すことができるかもしれない。やってみない理由は見つからなかった。

 国際宇宙ステーションを見ることができる日時や方角は、インターネット上の観測予報サイトで調べた。〈国際宇宙ステーション 見える日〉と検索すると「#きぼうを見よう」の文字が最初に目に飛び込んでくる。国際宇宙ステーションに建設された日本の実験棟が「きぼう」という名前だから、予報サイトのタイトルがそうなっているのだろう。

 私は、この「きぼうを見よう」という言葉をとても気に入っていた。

 航の乗っている国際宇宙ステーションがとてもきれいに観測できた日、SNS上にたくさんの人たちが、自ら撮影した国際宇宙ステーションの動画や写真を投稿していた。そこには必ずと言っていいほど「日野さーん」と、宇宙にいる航へ呼び掛ける言葉が添えられていた。

 それを目にしたとき、それぞれの場所でそれぞれの生活を送っている、顔も名前も知らない人々が同じような気持ちで同じ空を見上げていたのだという事実が、無性に沁みた。そして、その先に航がいるということが、どうしようもなく嬉しかった。

 その時、「ああ、私たちは確かに希望を見ていたんだな」と心の底から思ったのだ。

 その日から「きぼうを見よう」は、私を前向きにさせる合言葉になっていた。


「ごちそうさまでしたー」

 涼やかな笑顔でそう言って、先に定食屋を出ていく航の背中を、私は複雑な気持ちで眺めている。

 僕は、航のことが誇らしかったんだ。

 今この時を逃せば、きっと二度と言うことが出来ないであろうその一言を、なかなか口に出せないでいる自分の小ささが、悔しかった。


    ★


 定食屋を出た後、私たちは大通りへ向かって歩き始めた。

 ジャンパーのポケットに手を突っ込んで半歩先をいく航の斜め後ろを、上着の襟を立てて顎をうずめた私がついていく。

「なにで来た?」航が半分振り向いて訊ねてくる。

「電車」と私。

「じゃあ、とりあえず駅に向かうか。俺も駅まで行くよ」

 航の提案に、私は黙ってうなずく。

 航が宇宙飛行士になって初めて知ったことだったが、彼らにはマネージャーがついている。業務スケジュールの管理や海外での生活のことなど、色々とサポートしてくれるのだそうだ。これから向かう駅にも、そのマネージャーが迎えに来てくれるのだろう。

 航は今回の一時帰国中、メディアへの出演はもちろん、地元のお偉方への挨拶や講演会など、分刻みのスケジュールで動いていた。私とこうして会う時間も、マネージャーに無理を言ってつくってもらっているのかもしれない。

 そうしてまで、私に連絡をくれたのはどうしてだろう。

 大通りを駅のほうへ下っていくと、左手にケヤキに囲まれた公園が見えてくる。サッカーコート一面分ほどの広さの芝に遊具が設置され、そこをぐるりと周れるように遊歩道が敷かれている。この公園を横切ると駅へは近道になる。

 公園の中は家族連れや子どもたちの姿でにぎわっていた。

 私と航は遊歩道の端っこを、ゆっくり並んで歩いた。

「星を撮りに行った日の帰りにさ」

 航がぽつりと言う。私は、うん、と返事をする。

「バスのなかで話したこと、憶えてるか?」

 私は正直に、いいや、と首を振った。あの日はバスでキャンプ場まで行ったのだから、バスで帰ったことに違いはないのだろうが、そのシーンはほとんど記憶に残っていない。

「俺が、『真司はどうしてそんなに色んなことを知ってるんだ?』って訊いたんだ」

 言われてみれば、そんなことがあったような気がしないでもない。

「僕は、何て答えたんだっけ?」

 私が言うと、航は「全然憶えてないんだな」と口を開けて笑った。

「世界のことを知ってるつもりで、実は自分のことを知ってるんじゃないか―。あの日の真司は、そう答えたよ」

 私は肩をすくめてうつむき、足元の小石を蹴った。

「あんまり答えになってないな」と笑う。そうやって誤魔化せば、航も一緒に笑ってくれるだろう。そう思ったものの、彼は小さく息を吐き出しただけだった。

「あの言葉の意味、まだ思い出せるよな?」

 試されている。航の問いかけに、私はそう感じた。何を試されているのかはもちろん分からない。でも、この問いの答えだけは誤魔化してはいけない気がした。

 だから私は、「…たぶん、」と重い口を開いた。

「世界がどんな在り方をしているか、それをどれだけ知っても、それを〈知る〉のは他でもない、僕自身だから。知ったことについて、どんな風に感じるのか、考えるのか。その感覚だけは、譲りたくたって他の誰にも譲れない、僕だけのものだから。…だから、たくさんのことを知って、それについて考えることは、結局は自分を知ることに他ならない。たぶん、あの時の僕は、そういうことが言いたかったんだと思うよ」

 私が話し終えると航は薄く唇を噛んで微笑み、よかった、とつぶやいた。

 その反応の真意を図り損ねていると、航は続けて言った。

「俺は今日、真司にどうしても聞いてほしい話があって来たんだ」

「話?」と私は聞き返す。

「そう。俺が宇宙で体験した、秘密の話」

 そう言って航は、国際宇宙ステーションでのあのハプニング、クルーのひとりが深い深い眠りに沈んでいた間に起こった出来事について、唐突に話し始めた。


    ★


「メアリーの異変に気付いたのは、土曜日だった。国際宇宙ステーションも土日は休みなんだけど、俺はその日にやらなきゃいけない実験があったから、他のクルーより早く起きて仕事をしてたんだ。医療担当のティムは休みの日でも規則正しく起きてきて、少し遅れてコマンダーのマットが起きてきた。最初のうちは、またメアリーは思う存分寝坊してるな、なんて冗談めかして言い合ってたよ。

『メアリーの様子が心配だ』って言い出したのはマットだった。確かに、昼食の時間が迫っていたのに、誰ひとりメアリーの姿をみてなかった。それで、ティムが彼女を起こしに行ったんだ。前の日にみんなで夕飯を食べたときにはまったく変わった様子はなくて、寝ぼけた顔のメアリーが少し照れ臭そうに起きてくるんじゃないかって、俺もマットも信じて疑わなかった。

 だけど、メアリーの個室のほうから戻ってきたティムの様子をみて、何かよくないことが起きてるってすぐに悟ったよ。

『メアリーが目を覚まさない。何度呼びかけても反応しないんだ』

 ティムは落ち着いてはいたけれど、深刻な表情をしてた。

 マットはすぐに地上へこの緊急事態を伝えて、管制からは、帰還日程を含めた今後のスケジュールを検討して再度連絡するっていう返事があった。フライトサージャンっていう、地上で俺たちの体調を管理してるスタッフに、メアリーの状況を伝えつつ、彼女の体調が急変したときに必要な処置をできるように、ティムが常に彼女のそばについていることになった。

 その日の夜になってもメアリーの様子に変化はなくて、管制からマットへ、地球への帰還を早めるっていう連絡があった。メアリーの看護は、そのまま朝までティムが担当することになった。それからはティムの睡眠時間も確保する必要があるから、彼が不在の間、俺とマットのどちらかがついていられるように、一日のスケジュールを調整したりもした。

 日曜日の朝、ティムとマットが交代して、その数時間後にはもうティムが仮眠から戻ってきた。マットは『メアリーの容態は落ち着いているみたいだから、もう少し休んでもいい』って言ったけど、ティムの使命感は強かった。二人とも常に冷静で仲間思いで、本当に頼もしかったよ。

 次にティムと交代するのは俺だった。日曜日の午後九時ごろかな。ティムから引き継ぎを受けるためにメアリーのもとへ行ったら、就寝の準備を終えたマットもやってきた。

『メアリーの様子はどうだ?』

 マットの問いかけにティムは、『最初からずっと悪くはならないけど、よくもならないね』って答えてた。

 なんとなくその場が暗い雰囲気になったから、俺はティムとマットをとりあえず休ませようと思って、『ここは俺に任せて、ふたりはもしもの時に備えてゆっくりしてよ』って声をかけたんだ。ふたりとも『ああ、そうだな』って、それぞれの個室に戻ろうとした」

 航はそこで一度言葉を切り、意味ありげに自分の足元を見つめた。

「その時だよ、不思議なことが起こったのは」

 そう言って顔を上げた航の目の前には、はるか四〇〇キロメートル上空の国際宇宙ステーションで見た光景が、ありありと浮かんでいるようだった。

「突然、ティムとマットの姿が歪みはじめたんだ。ふたりの身体の輪郭が波うって、周囲の音が遠ざかっていく感じがした。辺りを見渡すと、ティムとマットだけじゃない、視界に入るものすべてがぐちゃぐちゃに歪んでた。あまりの驚きと焦りで、声を出すこともできなくて、ティムとマットが俺の異変に気付いてくれてるのかもわからなかった。

 そのまま、視界が砂嵐に覆われてフェードアウトしていったんだ。

 次の場面で、俺は今まで見たことのない場所に立ってた。そこはすごく無機質でガランとしてて、前方のほうに大きな窓と操縦席らしきものがあった。窓の外には真っ暗闇の宇宙が広がっていて、その乗り物は、誰も操縦していないのに前に進んでいるみたいだった。

 その時の俺はなぜか、これは現実じゃないっていう確信があったんだ。なんていうか、身体は動かせるけど、金縛りにあったときみたいで、まずい、覚めないと、とにかくマットたちのところに戻らないとって、それで頭がいっぱいだった。

 そしたら突然、その宇宙船みたいな乗り物のスピードが急激に遅くなって、遂に停止したんだ。俺はとりあえず操縦席に座って操作盤をいじってみたけど、何も変化はなくて〈燃料が残りわずかです〉っていうアラートが、カーナビみたいな液晶画面に出てきただけだった。現実じゃないってわかっているはずなのに絶望したよ。俺はなす術もなくただ操縦席に座って、燃料がなくなったらこの空間の照明も消えるのかとか、酸素供給はどうなるのかとか、そういうことを考えてた。

 そうやって目の前の宇宙を眺めていたら、遠くのほうに、何か青色の光が見えたんだ。最初は雲みたいにもやもやした塊だった。その光はだんだんと大きくなって、こっちに近づいてきた。よくよくみると、それは小さな光の粒が無数に集まってできたものだったんだ。ひとつひとつの青い光の粒が一定の範囲内で変則的に動き回ってた。ああ、なんか、すごくきれいだなって思って、俺はそれを観察してた。

 するとまた突然、宇宙船が動き出したんだ。だけどさっきまでとは動き方の感覚が違った。自力で動いているっていうよりは、何かに引っ張られていくような。操作盤を確認してもアラートは消えていなくて、どうして宇宙船が動き出したのか全然わからなかった。前方を見るとあの青い光が目と鼻の先まで迫っていて、『こいつに吸い寄せられてるんだ』って、そこで気が付いた。青い光の粒の集団に近づけば近づくほど、目を開けていられないくらい眩しくなって、『まずい、飲み込まれる』って、両腕で目を覆った。

 数秒後、恐る恐る目を開けると、窓の外が光の粒に覆われて、それ以外に何も見えない状況になっていた。光の粒はうねりながらものすごい速さで後ろへ流れていった。なんだか海のなかにでも潜ってるような気持ちになって、もしも人間がクジラや魚みたいに泳げたら、こんな景色が見えるのかもしれないな、なんて考えてた。

 青い光のトンネルはしばらくの間続いて、徐々に光の粒が少なくなっていった。

 光がほとんど消えて、再びだだっ広い宇宙の暗闇が見えるようになったとき、宇宙船もまた動かなくなった。光の余韻が頭のなかに残ってて、少しの間呆然としていた。

 それから俺は、もう一度宇宙船を動かせないか試してみようと思って、ダメもとで操作盤に目を落とした。その瞬間、視界の隅を何かが横切った気がしたんだ。咄嗟に顔を上げて窓の外をみると、さっきの青い光が、一粒だけふわふわ浮かんでた。その光は目の前をゆっくりと横切って行って、俺は無意識のうちにそいつを目で追ってた。そしたらその先にもう一粒、青い光があった。そこから少し上に視線を動かすともう一粒、その右のほうにも一粒。

 俺は操作盤から手を放して、窓の外を大きく見渡した。

 すると、目で捉えられる範囲一面に、無数の光の粒が散り散りになって浮かんでいたんだ。気が遠くなるような暗闇を背景にして、光の粒ひとつひとつが瞬いてた。その光景を目にしたとき、『ああ、そういえばこんな風だったな』って地球から見た星空を思い出して、思わずため息が出たよ。

 光の粒たちは、ゆっくりゆっくり移動して、再びひとつの場所に集まろうとしているようだった。集まってきた光の粒は、何か輪郭を描き始めた。それが一体何の形なのか、はじめのうちは見当がつかなかった。それでもじっと観察していると、それがだんだんと人間の形になっていくのがわかった。頭の上から足の先まで青く輝く一人の人間が、暗闇に浮かんでいた。それでも光の粒は止まらずに、変化を続けた。そのうちに、その人間の顔立ちまではっきりしてきたんだ。

 光の粒たちが、誰かの姿を俺に見せようとしていた。誰だ。あれは誰なんだ。

 俺はまばたきもせずに、動き続ける光のかたまりを食い入るように見つめてた。やがて、光の粒の運動は止まった。像が完成したんだ。その像を見て俺は、息をするのを忘れた。

 それが『自分』の姿だったからだ。

 光の粒がみせた巨大な自分と対峙して、俺は宇宙の真ん中を漂った。心は何かものすごい刺激を感じているのに、理性の部分は空っぽになって何も考えられない、不思議で恐ろしくて、心地のいい感覚だった。

 はっとして呼吸を再開したとき、目の前にはマットとティムの姿があった。俺は現実の国際宇宙ステーションに戻ったんだ。現実に戻れた嬉しさよりも混乱のほうが断然大きかった。何が起きたのかわからなくて、マットのほうを見ると、彼の表情も揺れてた。マットも俺と同じ体験をしてきたんだって、すぐにわかった。その時、

『マット、ワタル、見ろ!』

 突然ティムが声を上げて、俺とマットの横を通り過ぎていった。俺が我に返ってティムのほうを振り向くと、ティムはメアリーのそばで彼女の左手を握っていた。

 そして、眠っていたはずのメアリーは、まだうまく稼働しないらしい右手を小さくあげて、俺たちに精一杯の笑顔をつくって見せたんだ」


    ★


 航の口から語られた、あまりにも壮大な体験談に、私は何も言葉を発せられずにいた。いま自分のなかにあるこの感情を言葉にするには、時間が足りない。時間があったとしてもおそらく、私の語彙力が追いつかない。

「地球に帰還する前日、最後の夕食のときに、メアリーが俺たちに話してくれたんだ。彼女が、眠りに落ちた瞬間のことを」

 航は頭のなかを整理するように続けた。私は相槌を打つ代わりに、航の横顔を見た。

「彼女は、自分の意識だけが身体を離れてしまったみたいだった、って言ってた。あの日の朝、メアリー自身の感覚としては、いつもどおりに目を覚ましたつもりだったらしい。時計を確認して休日だということを思い出して、朝食をとろうと動き出したところで異変に気が付いた。目の前に、ベッドルームで眠ったままの自分の姿があったからだ。アウト・オブ・ボディ―日本語で言う幽体離脱だと悟った瞬間、彼女の意識はだだっ広い宇宙船のなかに飛んでいったそうだ」

「宇宙船?」私が訊ねると、航は真剣な表情で頷いた。

「ああ。その、メアリーが語る宇宙船の特徴を聞いてみたら、それが、俺が夢のなかで乗っていたあの宇宙船と同じものだったっていうことが分かった」

 航の言葉に、私は息をのんだ。

「メアリーのアウト・オブ・ボディの話は続いた。しばらくすると、彼女が乗っている宇宙船の目の前に巨大な穴が現れて、なすすべもなく、機体ごとそこに突入して行ったって言うんだ。そのあと、宇宙船が突然動かなくなって、そしたら青い光の塊が見えて…」

「それって」私は思わずつぶやいていた。

「そうなんだよ。そこから先、メアリーが語った内容は、俺が見た夢の内容とまったく同じだったんだ。『俺もその夢を見た』って言ったら、やっぱりマットも同じものを経験してた。さらによくよく確認してみたら、ティムもそうだったんだ」

「なんだよ、それ。どういうことなんだ?」

 困惑する私に、航は困ったように笑った。

「真相は俺たちにも分かんないよ。おそらくメアリーの意識にのぼっていたものが、何かしらの原因で、他の三人の意識にも投影されたんじゃないか、っていう結論に至った。意識が一時的に混線したのか、それとも人間の意識では到底辿りつけないような、もっと大きな存在が何かの意図を持ってそうさせたのか。後者だとしたら、メアリーの意識を連れ去ったのもその存在の仕業なんだろうなって。『メアリーはきっと選ばれたんだ』って、マットは言ってた」

 航はそこで話を区切る。公園には枯れ葉を小気味よく踏む二人の足音と、子どもたちの笑い声が混ざって響いていた。

 黙りこくった私を見て、航が訊ねてくる。

「非科学的だ、ありえないって思うか?」

 私は即座に首を横に振った。航が眉を上げてみせる。

「航たちは、最先端の科学技術を結集してさらにその先に行こうとしてるんだ。まだ見たことのないものや、仕組みを知り得ないものを非科学的っていうなら、この世界で起きていることのほとんどは、非科学的なことになってしまうんじゃないかと思う」

 私が言うと、航は表情をやわらかくした。

「本当に、この世はわかんないことだらけだよな」

「クジラたちが何を思ってるか、とかね」

「それは正直、どんな宇宙の謎よりも興味深いな」

 航が楽しそうに笑って、私も笑った。

「地球に帰ってきた後、船長とは話さなかったのか? 航たちが経験した、その…夢みたいなもののことについて」

 私が訊くと、航は「ああ、話したよ」と後日談を聞かせてくれた。

「クルー全員でインタビューを受けるときに、控室でマットとふたりきりになる時間があってさ。『俺たちがメアリーの意識を通して見たあれは、一体なんだったんだろう』って訊いたんだ。マットはなんて答えたと思う?」

 私は「さあ?」と首を傾げる。

「『俺たちは、世界の限界をみたんだろう』って。そう言ったんだ」

「世界の限界?」と私は聞き返す。

「俺もまったく同じ反応したよ」と航は笑い、「マット曰く、」と続ける。

「人類は、この世界で起きていることについて、なぜだろう、どうしてだろうって問い続けてきた。そうやってたくさんのことを知って、それまで不可能だと思われていたことを現実にしてきた。そのおかげで、俺たちは宇宙にだって行かせてもらえるんだ。だけど、〈なぜ〉っていう問いが、無限にすべての物事を明らかにしていくわけじゃない。必ず、その問いが受け入れられない先がある。〈なぜ〉が弾き返される地点がある」

「それが、世界の限界…」

 私が言うと、航は頷いた。

「マットの考えを聞いた時俺は、真司の言った『世界を知ってるつもりで自分を知ってる』っていう言葉を思い出してた。なんとなく、真司とマットの話、それに俺たちがみた夢は繋がってるんじゃないかって思って。だから、このことを真司にどうしても話したいって思ったんだ」

 マット船長の話と私の考えを並べていいかどうかは分からないが、ただ、偽りのない航の気持ちが素直に嬉しかった。

「きっと、ここに地球がある意味とか、僕たちが生きてる理由なんて、どれだけ頭のいい人が考えたって、どんなに科学が発達したって、絶対に知りようがないんだよな」

 私は、自分にも言い聞かせるつもりでつぶやいた。

「俺もそう思うよ」と航が言う。「だからこそ、ここに地球があるってこととか、ここに俺たちがいるってことはすげえことなんだ。それに、」

 顔を上げると、西日に照らし出された航の横顔が輝いていた。

「なんで生きてるのかって考えるよりも、どう生きるかって悩むほうが、大事なことだったりするんだよ」

 こちらを向いた航が、「そうだろ?」と顎を上げて目を細める。

 その途端、私の身体の真ん中に熱いものがこみあげてくるのが分かった。

 こんな感覚を味わうのは、一体いつぶりだろう。

 私は思わず胸に手を当て、あとからあとからとめどなく溢れてくる熱の存在をかみしめながら、「うん、そうだ。そうだったよ」と何度も頷いた。


    ★


 駅前のロータリーは、バスやタクシーで混雑していた。

 航の迎えが到着するのを待つ間、私たちは駅の入り口近くのベンチに座り、行きかう人々の様子をぼんやりと眺めていた。

「なかなか来ないな。真司まで待たせて悪いな」

 首を縮めて缶コーヒーをすすっていた航が言う。

「気にすんなよ。道、混んでるんだろ」

 私がそう答えたところで、ちょうど大通りのほうから白いバンが入ってきた。

「あ、あれかも」と航が立ち上がる。

 そのバンは送迎車用のスペースまでやってきて停車した。後ろの席から、スーツ姿の女性が降りてきて、航がそちらに向かって手を振る。私が立ち上がると、その女性は丁寧にこちらにもお辞儀をしてくれた。

 私が返礼をして顔を上げると、航はすでにバンのほうへ足を踏み出していた。

「じゃあまたな、真司」

 再会したときと同じく、航はあっさりと去っていく。

 きっと、自分が進んでいくと決めた道に迷いがないからだろう。

 しかし、残される私はまだ、そんなに潔く何かと別れられるほど強くはない。

「航」

 一歩ずつ遠ざかる背中に呼び掛ける。これが最後のチャンスだ。

「本当はさ、航が乗ってた国際宇宙ステーション、ちゃんと写真に撮ったよ」

 立ち止まった航は「おお」と振り向いて、「ありがとうな。その写真、絶対に送ってくれよ、スマホの待ち受けにするからさ」と笑顔を見せる。

 私も薄く笑って、さらに「ずっと、」と口を開く。

「ずっと応援してるから。また必ず、僕たちのきぼうになってくれよ」

 ようやく私は、偽りのない気持ちを伝えることができた。

 すると航は身体ごとこちらに向きなおり、真っすぐな瞳で私を見据えた。

「真司はさ、どう生きたいんだよ? 将来の夢は?」

 将来の夢。この年になってそんな単語を、自分のこととして耳にするとは思いもしなかった。

 しかしその瞬間、私の頭のなかに、ファインダー越しに見上げた雲や星や月や夕日が、次々に浮かんできた。それがいつどこで見た空なのか、私はもう思い出せなくなっている。ファインダー越しに見上げた空は、日常の取るに足らない出来事や懸案事項に上書きされ、徐々に色を失い、記憶から消えていく。このままではきっと、夢中で空を見上げていたあの頃の気持ちはすべて消えてなくなってしまう。本当に、それでいいのだろうか。いや。よくない。私は、もっとたくさんの空をみたい。世界中を旅して、地球上から見える空の全部のパターンをカメラに収めたい。いつか身体が動かなくなったら、部屋の天井と壁を自分で撮った写真で埋め尽くして、思い出の走馬灯のなかで暮らしていきたい。もっと、ただひたすら、自由に生きていきたい。

 これを私の、将来の夢と呼んでもいいだろうか。

 俯いたままの私を見て、航が口を開く。

「元はと言えば、真司が俺を宇宙に行かせたんだ。遠いところにあるように感じるかもしないけど、希望はいつだってお前のなかにあるんだよ」

 そう言い残すと、航は再びこちらに背をむけ、振り返らずに歩いていく。

 私はその背中を見つめながら、湧き上がってくる力を、こぶしにして握り締めていた。


     ★


 その日の夜更け、私は布団に入ったまま、なかなか寝付けずにいた。航と過ごした時間の余韻が眠気を寄せ付けなかった。遂にいてもたってもいられなくなった私は、ベッドを抜け出し、毛布を羽織ってベランダへ出た。

 真夜中にも関わらず街の灯りは煌々と輝き、空は群青色に照らし出されていた。

 私は腕を伸ばして、両手の親指と人差し指で横長の四角形をつくり、片目でそのなかを覗き込んだ。

 指のフレームに切り取られた群青の真ん中に、銀色が一粒、瞬いていた。

 僕たちの上には星がある。

 そんな風に感じたのは、おそらく、十三年ぶりだった。


                                  (了)

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