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【小説】君が月(1/1話)

約16000字
おじいさんが主人公です。
もしも頭の中で過去と現在の見分けがつかなくなったらどうなるんだろう、という空想から生まれた物語です。

   *


 目が覚めると、隣で眠っているはずの君が、いなかった。

 パジャマからセーターとスラックスに着替え、一階へ下りていく。家の中は物音ひとつせず、空気さえもまだ眠っているかのようだった。リビングへ続くドアを引くと、キイ、と蝶番がきしむ音がやけに大きく響いた。ファンヒーターのスイッチを入れる。

 君は、どこに行ってしまったのだろう。

 ふと、テレビの横にある二段の棚に目が留まった。そこには、シンプルな花瓶にさされたカスミソウが飾られている。その隣には額縁に入った君の写真。写真のなかの君は、こちらを向いて少し照れ臭そうに笑っていた。

 私ははて、と考え込む。いつからこんな写真が飾ってあっただろう。私の記憶では、そこには娘のさくらと婿の雄三くん、それに孫の夏菜子と隆太がうつった写真を置いていたはずだ。

 君がとても愛おしそうにその写真を見つめていたことを、今でも鮮明に覚えている。

 私は大きな窓のそばにおいてある籐椅子に体を預けて、天使が羽を広げたかのように軽快に浮かぶ雲を眺めていた。

 しばらくすると、キッチンのほうで蛇口をひねる音が聞こえ、水が流れ出した。私は身体を起こして、背もたれ越しに音のしたほうを覗いた。そこには、えんじ色にちいさな白い花柄が散りばめられたエプロンをつけ、丁寧に手を洗っている君の後ろ姿があった。

 なんだ、そこにいたんじゃないか。

 肩の力が抜けて、私は再び背もたれに寄り掛かった。流れる水の音とともに朝の空気が体中に流れ込んできて、漠然とした不安を押し流してくれる。ようやく夜が終わり、世界と私が繋がった気がした。

 ガチャリ、と玄関のドアノブに誰かが手をかけた。続けて、廊下を急ぐように進んでくる足音。この騒々しさから察するにさくらがやってきたようだ。

 娘夫婦とは数年前までここで一緒に生活していたが、隆太が小学校にあがった時期を見計らって、ここから徒歩で二十分ほどのところにあるマンションへ引っ越していた。いまでもこうして、私たちの様子を見に少なくとも週に一度は来てくれる。

「父さん、また寝てたの」

 さくらは私の顔を覗き込んでからかうように笑った。さくらの声に対比されて、彼女の背後にある部屋の静寂がくっきりと浮かび上がる。

「いやあ、寝てなんかないよ」

 私は少しむきになって答える。

「絶対に寝てたって」

 さくらは笑いをかみ殺すように言って、手に持っていたスーパーマーケットの袋から透明なパックに入ったいちごを取り出し、キッチンのほうへ消えた。

 すぐに戻ってきたさくらは、いちごの盛られた小さな皿を二つ手にしていて、一つを私の前に、もう一つを君の写真の前に置いた。

 私は君の写真を見つめて目を細めるさくらを、ただぼんやりと眺めていた。

 そういえば、さっきまでキッチンにいた君の姿がまたみえなくなった。さくらとは言葉を交わしただろうか。

「じゃあ父さん、あっちのテーブルの上にお昼ご飯置いといたから。ちゃんと食べないとだめだよ」

 さくらはそう言って、再び私の顔を覗き込む。本当にしっかりした子に育ったものだなあ。私は数回まばたきをした。

「今夜、夏菜子と隆太を連れてまた来るから」

 さくらが重たそうなショルダーバックを左肩にかけながら、こちらに背を向ける。

「どうして」

 私の問いかけに、さくらは眉を八の字にした。おおげさに困ったふりをする表情は幼いころからほとんど変わらない。私が間抜けなことをすると、決まって君と一緒にこの顔をしていた。

「今日は父さんの誕生日じゃない」

 誕生日、とさくらの言葉を噛んで飲み込む。

「今日が、その日か」

 私が呟くと、さくらは「母さんの誕生日は、忘れたことがないのにね」と少し弾んだ声で言った。

「じゃあ仕事、行ってくるね」

 さくらが部屋を出ていこうとしたので、私はその背中に声をかける。

「気をつけるんだぞ」

 はあい、という声が廊下のほうから飛んできて、しばらく部屋のなかを漂い消えていった。


 突然大勢の笑い声が聞こえ、私は驚いて当たりを見まわした。すぐにそれがテレビから発せられたものだったとわかり、小さくため息をついた。朝の情報番組が終わり、昼のバラエティ番組が始まったところだった。

 いつの間にこんなに時間がたっていたのだろうか。

「またつけっぱなしで寝ちゃって」

 その聞き慣れたよくとおる声は、あまりにも自然に私の注意を惹きつけた。右側を向くとテーブルの向こうにあるソファーに、君が座っていた。あきれたような口調で、しかしどことなく楽しそうな表情をしていた。

 ああ、私は眠っていたのか。

「いやあ、すまん」

 私は漫画のように頭を掻いた。なぜかとても久しぶりに君に会った感じがして、素直に目を合わせることができない。

「あら、おいしそうね」

 君の視線が私の前に置いてあったいちごに釘付けになる。いちごにまとわりついた水滴がきらきらと揺れていた。君はそれをひとつ、ふたつと口に運ぶ。君の瞳が歓喜に潤んでいた。幸せそうに頬っぺたを膨らませる。そういえば、いちごは君の大好物だったっけ。

 無邪気な君の姿が眩しくて、愛おしくて、なんだか涙がこぼれ落ちそうになった。

「いちごの旬って、いつだか知ってる?」

 そんな私をよそに、君は屈託なく問いかけてくる。弱気になっていたころを悟られぬよう、私は気取った口調で答えた。

「それくらい知っているよ。冬、だろう」

 君は唇をかんで微笑む。まるで大人へのいたずらを成功させた、子どものような表情だ。「残念でした」とまたひとつ、いちごを口に放り込む。

 私は、解せぬと目で訴えた。君があんまり美味そうに頬張るから、私もいちごを一粒口にした。

「正解はね、一月から五月」

 ああ、と私は納得する。「イチ、ゴ、だからか」思わず独り言のように言った。

「そうそう。名前のとおりよって、八百屋のおばさんが言ってたの」

 今日の君はとても上機嫌だ。きっと、さくらがいちごを買ってきてくれたおかげだ。

 そういえばさくらとは話したのか。

 そう訊ねようとしたところで、ちょうど君が「練乳、かけよう」と立ち上がった。君は鼻歌を歌いながら、牛の顔がえがかれたチューブと小さなフォークを二本もって、キッチンから戻ってくる。

 チューブを柔らかく握り皿の上で前後左右に動かしていた君の肘が、皿に立てかけていたフォークにあたった。フォークは回転しながら勢いよくテーブルの上を滑っていく。気が付いた君がそれを目で追いかける。「あ」と私が間の抜けた声を出したのと同時に、フォークはフローリングの床へ落下した。

 キン、と金属のぶつかる繊細な音が空気を震わせる。その空気の振動はたっぷりと余韻を残して響き、その場に流れていた時間を支配した。君と私は一瞬動きを止めた。

 時間が再び動き出すと、私ははっとしてフォークを拾うために立ち上がった。しかしテーブルの反対側を探しても、テレビ台やカラーボックスの下を覗いても、フォークは見当たらなかった。

 言い知れぬ不安が私の背中に張り付いた。嫌な感じだ。

「おかしいな」とわざと声に出し、先ほどまで座っていたほうを振り返る。

 するとそこにはもう、君の姿はなかった。

 世界が徐々に、色を失っていった。


    *


 少し冷たくなった風が金木犀の匂いをのせて町を漂うころ、私は初めて君と言葉を交わした。十七になった年だった。

 その日は、私たちが通っていた高校で最大のイベントである文化祭の前日だった。放課後、特に仲の良かった何人かと連れ立って、前夜祭をしようと学校の近くの喫茶店へ向かった。そのメンバーのなかにひとりだけ見慣れない顔がいて、それが隣のクラスの君だった。

「父さんの仕事の都合で、先週越してきたの」

 前を歩く女子生徒たちの会話に、私は密かに耳を澄ましていた。

 喫茶店に入ると、君は女子生徒たちに囲まれて質問攻めにあっていた。父親の仕事は何かとか、兄弟はいるのかとか、あっちでの暮らしはどのようなものだったのかとか。君は戸惑う仕草も見せずに、淡々とそれらに答えていた。こういうことに慣れているのかもしれないな、といちばん遠い席から君を眺めながらメロンソーダをすすっていた。

 君はとても大人びているように見えた。他の女子たちがはつらつとした華やかさをまとっているのとは対照的に、君ひとりだけが別世界にいるかのような静けさを背負っていた。あの頃すでに君は、自分を必要以上に飾り立てることをせずとも、自分自身を美しくみせる術を知っていたのだろう。

 私は次第に君の魅力に引き込まれていった。しかしそれは、恋ごころと呼べるようなものではなく、初めて出会った類の人間に対する探究心に近いものだった。少なくともその時の私はそう思っていた。

 帰り道、みんなと少し離れて歩く君に、私から声をかけた。なんとなくその時の君の仕草が気になったからだ。私はその会話を今でも鮮明に覚えている。君にとっては何てことのない会話だったのかもしれないけれど。

 結局、高校時代に君とまともな会話をしたのは、その一回きりだった。私は大学へ通うために都会の街で一人暮らしを始め、友人たちとも離れ離れになってしまった。しかし、大学で出会った友人や先輩に教わった新しい遊びに夢中になり、高校時代の思い出は徐々に遠くへ追いやられた。君のこともほとんど思い出さなくなっていた。

 数年後、偶然の再開を果たすまでは。


    *


 再び、朝が来た。

 やはり、君は不在。

 私は寝起きのすっきりとしない脳みそでつぶやいて、布団から出た。

 いつもどおりリビングへ下りていき、籐椅子に腰をかける。空を見上げると、綿をちぎったような雪がはらはらと舞い降りていた。空は一面薄いグレーに覆われていて、世界は冷たい明るさで満たされていた。

 きれいだ、と他人事のように思う。暖房のきいた部屋のなかにいれば、雪が降るほどの寒さだって他人事だ。

 昨日の夕方、さくらが約束通り夏菜子と隆太、雄三くんを連れてやってきた。夏菜子は今年高校二年生で、さくらの手伝いをしたり隆太の面倒をみたり、とても気の利く子だ。小学六年生になった隆太は恥ずかしがり屋で、私が頭を撫でるとくすぐったそうにしていた。雄三くんと釣り堀に行くのが週末の楽しみだと話してくれた。

 ダイニングテーブルに並べられた色とりどりの料理、ケーキを頬張る夏菜子と隆太、それを見守るさくらと雄三くんの眼差し。絵に描いたような幸せが私の目の前に広がっていた。しかしそれは文字通り絵画や映画のように、私とは無関係にそこにあるもののようにも感じられた。それでも昨夜の出来事は、非日常がもたらす充足感を私の胸にしっかりと縫い付けていった。ただ、充足感を味わえば味わうほど、こちら側の世界の物寂しさが生々しくなっていくことも確かだった。

 君がいればなあ、と小さく息を吐く。

 君とつくりあげる日常があるから、私は、この世界と確かに繋がっていられるのだ。


「雪、積もりそうね」

 君の弾むような声が聞こえて、私は咄嗟に顔を上げた。君は大きな窓のそばに立っていた。その言葉どおり、雪の降る勢いがさきぼどよりも少し増していた。窓に軽く触れ、景色を見上げる君の横顔は雪の白さを反射し、透き通るように輝いていた。

「ああ、そうだな」

 私が返事をすると、「随分眠たそうな声ね」と君は笑った。

 いつだったか、私が「雪の積もるときの音が好きだ」と言ったのを君はとても気に入ってくれた。牡丹雪の降る静かな日に窓を開けると、ふさ、ふさ、と自分たちの呼吸音にすらかき消されてしまいそうな、微かな音が聞こえてくる。ふたりで白い息を吐きながら、じっと耳を澄ました朝を思い出す。

「あ。そうだ」

 君の目がきらりと光った。唐突な思い付きは君の得意技だ。

「ねえ、久しぶりに散歩へ行かない?」

 私は君の顔と外の景色を見比べて、タートルネックのセーターに顎をうずめた。続けて脚と腕を組む。

 こんな寒いときに外に出たくないぞ、僕は。

 心の中で異を唱えてみる。それは確実に君にも伝わっている。だが、きっと君はお構いなしに出かける支度を始める。そして十分後には、私と君は並んで近所の公園を歩いているだろう。

 鼻歌を歌いながら防寒具のはいったクローゼットのほうへ向かう君を見送る。

 薄く積もった雪が、着々と景色を純白に染め上げていた。


    *


 部屋に充満していた静寂を切り裂くように、電話の音が鳴り響いた。

 私は少し驚いて身体を震わせた。それから慎重に立ち上がる。私なりの全速力で、廊下に置いてある電話機のもとへ向かった。だが、無情にも呼びだし音はぷつりとやんだ。

 小さく肩をすくめ、リビングへ戻ろうとしたところで再び電話機が鳴り出した。

「もしもし、おじいちゃん?」

 電話をかけてきたのは夏菜子だった。

「寝てたの?」

「いや、寝てない」

 一回目の電話も夏菜子からだったようだ。

「これからさ、おじいちゃんの家に行ってもいい?」

 時刻は午後二時をまわったところだった。

「学校は?」

「期末テストだから早く終わったの。じゃあ、あと三十分後ぐらいに着くからね」

 そう言って、夏菜子はそそっかしく電話を切った。


 私はリビングへ戻り、窓の外を眺めた。指先に触れるガラスはひんやりと心地よい。

 雪は勢いを強めることも弱めることもなく、降り続いていた。すでにくるぶしの高さくらいまでは積もっているだろうか。

「やっぱり、積もってきたわね」

 君が私のすぐ隣に立っていた。コートを羽織ってマフラーを巻いて、手袋までつけて。そういえば、散歩に出ると言っていたのだったっけ。

 私は外の景色に目をやった。

「だめだ、夏菜子が、これから来るんだよ」

 だから、出かけるのは明日にしよう。

 私は君のほうを再び振り向き、そう言いかけて口を噤んだ。君の姿がもうそこにはなかったからだ。


 気が付くと、私は籐椅子に沈み込んでいた。玄関の鍵を開ける音が聞こえて、しばらくすると夏菜子が姿を見せた。

「やっぱり寝てたでしょ、おじいちゃん」

 夏菜子はかばんをおろし、コートとマフラーをソファーの上に放って、自分も空いているところに腰をかける。

「起きていたさ、ずっと」

 私は身体を浮かせて座り直し、シャツの裾を整えた。

「ふうん」と、夏菜子が笑みを浮かべる。全部お見通しなのよ、と夏菜子の醸し出す雰囲気が語っている。君もしばしば、似たような空気をまとっていることがあったな。最近はさくらも。

 夏菜子は携帯電話を操作している。

 私は君がそうしていたように、お菓子を用意したりジュースを出したり、何か気を利かせなければと思うが、どうすればよいか分からない。

「戸棚にお菓子が入っている。と思う」

 私がそう言うと、「わかった」と夏菜子はクッキーの入った缶を取り出し、大き目の皿にきれいに盛り付けた。それからコーヒーを二人分淹れる。夏菜子が選んだコーヒーカップは、君が気に入って来客用にしていたものだ。よく見ているなと感心する。

「よく来たね。雪も降ってるのに」

 私はコーヒーをすすりながら言った。

「うん、おじいちゃんの家、すきだもん」

 静かで、世間から一歩離れてる感じ。と夏菜子が付け足す。

「どうだ、学校は」

「昨日も同じこときかれた」

 夏菜子がくすり、と笑う。「そうか」と私は顎を撫でた。

「楽しいよ、毎日。おじいちゃんはどう?」

 私は答えに窮した。毎日の生活を思い出そうとしても、最近のことは空っぽだった。私は、どうしていたのだろう。

「おじいちゃんって、いつも何してるの?」

 夏菜子が重ねて訊いてくる。私は頭のなかを必死に探った。

 すると記憶の空白を染めるように、鮮やかな色彩を伴い浮かび上がってくるものがあった。それは、君の姿や声だった。

「待っているんだ」

 私の脈略のない呟きに、夏菜子が首を傾げた。

「何?」

 私はテーブルの上のコーヒーカップに目を落とした。

「夏菜子のおばあちゃんのこと。ずっと、待っているんだ」

 しばし沈黙が流れる。

 夏菜子のほうに視線をやると、彼女は今にも泣きだしそうな顔をして、それから無理に笑おうとした。表情がどっちつかずになり、歪んでいた。夏菜子が私の視線を避けるようにそっぽを向き、微かに揺らいだ声で返事をした。

「そうなんだ」

 夏菜子の視線をたどると、カスミソウの花瓶のよこに飾られた、写真立てのなかの君と目が合った。


 夢を見た。

 私は小高い丘の上に立っていた。

 眼下に広がる世界は夜の闇に息をひそめ、濃紺の空と漆黒の大地を分ける地平線だけがその存在感を放っていた。生ぬるい風が、頬をかすめる。

 私の隣には女性が立っていた。淡い色のワンピースが風に揺れ、暗闇に浮き上がる。彼女は一心に空を見上げていた。つられて私も天を仰ぐと、ちょうど私たちの真上に黄金色の光をまとった満月が浮かんでいた。よく晴れた夜空だったが、他の星々は見当たらない。

 私はもう一度、彼女のほうに目をやった。月明りに照らされた美しい横顔は、まだ何も知らない無垢な少女のようにも、この世界で起こりうるすべての出来事をすでに経験してしまった人間のようにも見えた。

 わたし、もうすぐ戻らなきゃいけないの。

 彼女が月を見上げたまま、ぽつりと言った。その声色から、私と彼女がとても親密な間柄なのだとわかった。

 どこへ?

 私は静かに訊ねた。

 彼女はその質問には答えず、じっと月だけを見つめていた。私は言い知れぬ不安に襲われ、いてもたってもいられなくなった。ほとんど衝動的に、彼女の手を取った。

 彼女はここからいなくなってしまう。おそらくこれは、決して抗うことのできない運命で、疑う余地のない現実だ。夢のなかの私は、彼女の体温を掌で感じながらそんなことを思い、俯いた。

 そこへ戻ったら、僕のことは忘れてしまうのかい?

 うん、きっとね。

 そう答えた彼女の声は泣きたくなるくらいに穏やかで、私はあふれ出る思いを堪えるために、再び月を見上げた。そんな私の気持ちを悟ったかのように、彼女は私の手を握り返した。それから、視線を空に向けたままで言う。

 大丈夫よ、わたしがいなくなったら、あなたも私のことを忘れてしまうから。

 彼女の言葉に、私はゆっくりと首を横に振った。彼女の両肩に手を当て視線を合わせる。その時にはもう、私の頬を涙が伝っていた。

 そんなわけない。忘れるわけがないじゃないか。

 情けなく掠れた私の声に、彼女はまつげを揺らした。その表情があまりにも切なく、彼女が微笑んだのだと理解するまでに少し時間がかかった。

 次の瞬間、彼女は私の手をすり抜けた。具体的な形をもった力では抗うことができないような、そんな身のこなしだった。

 じゃあ、さようなら。

 最後の別れには似つかわしくないほど落ち着き払った声でそう言い、彼女はこちらに背を向ける。

 待ってくれ……

 彼女を引き留めようと伸ばした手は空を切った。彼女の姿を見失ったのと同時に、はるかかなたに伸びる地平線から、朱色の巨大な太陽が昇り始めた。

 私はそのあまりの眩しさに、固く目をつぶった。


 再び目を開けると、そこは寝室の布団のなかだった。カーテンの隙間から差し込む光が部屋を朝の色で満たしている。私は服を着替え、一階へと下りていく。リビングへ足を踏み入れると、キッチンのほうから食器を重ねる音と味噌汁のにおいがした。

 君がこちらに背を向け、朝食の準備をしていた。

「あ、おはよう」

 私の存在に気が付くと、君は半分だけこちらを向いて、目線を合わせるようにした。

 その横顔が夢のなかに出てきた女性の姿とリンクし、目が釘付けになった。

 夢でみた景色が、現実とはかけ離れた場所で生々しく蘇る。漠然とした不安を抱きながらも何か懐かしさを感じ、私は奇妙な高揚感に包み込まれた。夢と現実のつなぎ目を漂っているような感覚に陥る。

「どうしたの」

 君の声が耳に届き、我に返る。

「何だか、不思議な夢をみたんだ」

 私は眉を八の字にして笑う君をみつめて、そう答えた。

「へえ」

 君はカスミソウ柄のエプロンで手を拭きながらガス台のほうへ向き直り、味噌汁を温めなおすために火を点けた。

「水を一杯、もらってもいいかな」

 私は君の手から水の入ったガラスのコップを受け取り、いつもの籐椅子に座ろうと、君に背を向けた。

 そこで私は自分の目を疑った。リビングの窓から、一日の終わりを迎えようとする夕暮れの景色が見えていたからだ。

 どうして。私はついさっき目覚めて、君と朝の挨拶を交わしたところではないか。

 私は窓のほうへ歩み寄り、外を覗いた。西日を反射してピンク色に染まった雲が空を覆いつくし、不気味だった。あり得ない、と思わず声に出す。

 とりあえず手に持っていたコップをテーブルに置こうと振り返ると、あるものに目が留まった。それは、ソファーの上に無造作に置かれたマフラーだった。グレンチェックに赤い線が混じった柄だ。

 あれは夏菜子がつけていたものだ。この前夏菜子が来たときに忘れていったのか。いや、待てよ。この前っていつだ。夏菜子がやってきたのはそんなに前のことだっただろうか。

 部屋のなかの薄明かりが、ゆっくりと私のなかに染み込んでくる。それと並行して徐々に頭のなかがすっきりと、整理されていく。

 夏菜子が来ていたのは今日のことじゃないか。昼寝のし過ぎで、朝だと勘違いしただけだった。

 そう納得してマフラーを手に取る。あとで電話を入れよう。

 顔をあげ、辺りを見渡してみたものの、君の気配はすっかり消えてなくなっていた。


「マフラー、忘れていっただろう」

 私がさくらの家に電話をかけたのは、夕方の六時をまわったころだった。さくらはまだ仕事から帰っていないらしく、すぐに夏菜子が出た。

「そうそう、家に着いてから気が付いたの」

「いつの間に、帰ったんだ」

「帰るよって声かけたじゃん。おじいちゃん返事してたよ」

 夏菜子は笑う。私はそうか、とうなずいた。

「さくらに寄ってもらって、マフラー持ち帰るように頼んでみるか」

 私の提案に夏菜子は少しの間考え込み、まあいいや、と声を飛ばした。

「どうせ、またすぐに行くからさ、おじいちゃんち。それまで置いといてよ」

 夏菜子の何気ない言葉に、思いやりと気遣いを感じる。

「うん、わかった。待ってるよ」

 私はそっと、受話器を置いた。


    *


 その日の午前中、私は買い物に出た。大した用事があったわけではない。ただ、たまには外の空気を吸わなければならないと思い立ったのだ。あの日先延ばしにした君との散歩は、結局実現していない。コートのポケットに両手を突っ込み、たてた襟にあごをうずめて歩く。

 先日十センチほど積もった雪は、日陰となっているところにわずかに残るばかりだ。この頃、めっきり降雪が少なくなった。雪かきの手間が省けるのはありがたいことだが、そう喜んでばかりもいられない。変化に置いて行かれ、人の目に映らなくなり、いつの間にか取返しのつかない状態に陥っているものが、この世界には少なからずあると思うのだ。

 私は近所のスーパーで乾電池とハッカ飴を買い、ゆっくりとした足取りで自宅を目指した。

 県道を渡り、住宅がひしめき合う隙間を縫って、細い路地を進んでいく。最後の角を曲がったところで、数メートル先の一軒家から見覚えのある男が出てきて、道路沿いで煙草を吸い始めた。うまそうに目を細め、煙を吐き出す。

「久しぶり、玄さん」

 私が声をかけると、彼は「お」と眉を上げ、こちらを向いてにやりと笑った。

 二つ年上の玄さんは、数十年前、私と君がこの町に越してきてからの付き合いだ。

 君と籍を入れてすぐのころは、私が就職した会社の近くの小さなアパートで暮らしていたが、そのうち生活に余裕がでてくると、もう少し広いところを借りようということになり、諸々の条件に合致したのがこの町にあるあの一軒家だった。

 町内会の集まりなどに参加しているうちに、年齢の近かった玄さんと自然に親しくなった。若いころには、よく麻雀をうちに行ったり近所の居酒屋に通ったりした。さくらが生まれると分かったころからその機会も減っていったが、私にとっては今でも友人と呼べる数少ない存在のひとりだった。

「最近、玄さんの顔見てなかったな」

 私自身、近頃外に出かけなくなったことも無関係ではないだろうが。

「ああ、そうだな」

 玄さんは煙と一緒に声を吐き出す。昔から酒ばかり飲んでまともに食事を摂らないひとだったため痩せ型ではあったが、今の玄さんはいちだんと頬がこけて見える。

「どうしてこんなところで一服してんだ」

 私は最初から気になっていたことを口にした。

「カミさんに怒られるんだよ」

 玄さんはなぜか声を潜め、その様子をみて私は笑った。しかし、どこか引っかかるところがある。玄さんの奥さんはそんなに分煙に厳しいひとだっただろうか。実際、外で喫煙する玄さんの姿なんてこれまでに見たことがなかった。

 ダウンの袖からのぞく玄さんの腕がやけに細く感じる。

「玄さん、少し痩せたか?」

 私が訊くと玄さんは「ああ、まあな」と歯切れの悪い返事をして、ちびた煙草を地面に捨てた。足で火を揉み消す。

「酒も煙草も禁止されてる。医者に。辞められるわけねえけどな」

 玄さんはそう言って、またにやりと笑った。

「どこか悪いのか」

 私は思わず、前のめりになった。玄さんは私のほうを一瞥するが、何も言わない。

「そんなに悪いのか」

 私はつい問い詰めるような口調になった。

「まあ、よくはないな」

 こういう時、変に強がったりはしない玄さんのその言葉を聴いて、思考も感情も一時停止した。頭の中の重要なことを考える機能の一部が抜け落ちたような感覚だった。私はあからさまにうろたえた。

 そんな私には構わず、玄さんは胸ポケットから二本目の煙草を取り出した。

「もう、そのへんにしといたほうが―」

 私が止めようとしたところを、玄さんの平坦な声が遮った。

「なあ。死ぬことって、怖いと思うか」

 慣れた手つきで煙草に火を点ける。どうして突然、そんなことを訊くんだ。私は何も答えられずに俯いた。

「俺、面白いこと考えついたんだ。聴くか?」

 玄さんの口調が一段階明るくなる。これは、大学時代に形而上学を専攻していたらしい玄さんの、いまだに抜けない口癖だった。

 その常套句に反応して顔を上げた私は、信じられないものを目にした。

 玄さんの横顔がみるみるうちに若返っていくのだ。その過程には、私がよく知っている顔も、見たことのない顔もあった。

 当の玄さんは煙を吐き出しつつ、「面白いこと」を語り始める。

「人間ってよお、自分が悲しかったり嬉しかったり、痛かったりかゆかったりするから、他人に感覚や感情があるってことを理解できるんだよな。まあ、他人のことについては推測の域を出ないんだけどよ。言ったら、自分が生きているってことを知っているから、他人が生きているってことを理解できるんだよな」

 吐き出された煙を追いかけて遠い目をした玄さんは、よく日に焼けた張りのある横顔をしていた。それは、私たちが毎日のように遊んでいたころの玄さんだった。煙がゆらゆらと登っていき、同じ色をした空に溶ける。

「だけど、死だけはちがう」

 玄さんはゆっくりと、自分自身に言い聞かせるかのように強調した。

「自分以外のものの死は、経験を通して知ることができるよな。他人が死んだら、身体が冷たくなって動かなくなって、声が聴けなくなって、そのひとの実体も精神も感覚で捉えられなくなる。それが、他人が死ぬってことだ。だけどさ、自分の死については、誰も知り得ないんだよな。誰も死んだことはないし、自分が死んだらどうなるかも知りようがないんだからさ。それが死ぬってことだからな。他人の死は理解できるのに、自分の死は推測すらできない。それって、面白いと思わないか」

 そう締めくくり、こちらを真っすぐに見据えた玄さんは、年老いたいまの姿に戻っていた。先ほど声をかけたときよりも歳を取ったのではないかとすら思える。

「難しいんだよな、玄さんの言うことは」

 私のお決まりの返答に、玄さんは豪快に笑った。

 私は、この時の玄さんのすべてを死ぬまで忘れないだろうと思った。


 自宅に戻った私は、スーパーの袋をダイニングテーブルに置き、籐椅子に腰をかけた。

 今しがた見聞きした玄さんの姿や声や言葉が、いっぺんに私の上にのしかかってきて重たい。玄さんが伝えたかったことは何だったのか。記憶をたどって真実をすくい出そうとするが、思考が空回りしてまったくかなわない。

 ねずみ色ののっぺりした雲が、一生そこから消えないのではないかと思われる貫禄で鎮座していた。

 ふいに二階から、ごー、という怪獣の唸り声のような音が聞こえてきた。ベランダへ続くガラスの引き戸を開けたときの音だ。考えるよりも先に、身体が動いていた。ベランダがある部屋を目指して、階段を上っていく。その部屋へ続く扉は開け放たれており、外の匂いが風になって廊下まで流れてくる。

 部屋に足を踏み入れると、洗濯物を腕いっぱいに抱えた君と目が合った。

「乾いた、乾いた。よかったよ」

 君はそう言って両方の眉をあげる。雲行きが怪しくなってきたので、洗濯物を取り込んでいたのだろう。

 物干し竿にかかったバスタオルを外すため、背伸びをしている君を手伝う。二人で手分けして洗濯物を抱え、慎重に一階へ下りる。君はいつもテレビを見ながら洗濯物をたたむのだ。

「さっき、玄さんに会ったんだ」

 シャツやズボンを手際よくたたんでいく君の横で、私はペアの靴下を見つけ出し、丸めながら言う。

「へえ。何だか、ずっと会ってない気がするわね」

「ああ」

「元気だった?」

 その問いかけに、私はどう答えればよいか一瞬迷った。

「うん、まあ、医者にかかってるみたいなんだ」

 君は洗濯物から顔を上げた。私は丸めたての靴下を掌でもてあそんだ。

「あまり、よくはないらしい」

 君は自分を納得させるかのように二、三回うなずきながら、視線を手元に戻した。しばらくお互いに無言になる。テレビから流れてくる軽快な音楽と陽気な笑い声が浮いていた。

「何か、面白いこと考えてた?」

 沈黙を破ったのは君のほうだった。私はすぐに、玄さんのことを言っているのだと悟った。玄さんとよく遊んでいたころの私の口癖は、「玄さんがまた、面白いことを考えついたんだ」だった。

「ああ―」

 私はそう返事をしたきり、黙りこくった。あの頃なら、酒に酔ってうまくまわらない舌で、君に呆れられながら、玄さんと語り合った内容の隅々まで披露していたのに。

 さっきの玄さんがどんな表情をしてあの話をしていたのかも私が何を思っていたのかも憶えているはずなのに、何もかもが輪郭を失って言葉にならず、零れ落ちていく。

 —考察の道筋を見失いそうになったら、必ず最初の問いに戻ることだ。

 ふいに蘇ってきたのは、難解な問題にぶつかった私をみたときに玄さんがいつもかけてくれた言葉だった。

「なあ、死ぬことって、怖いと思うか」

 私は気づかぬうちに、そう、口にしていた。そしてはっとする。玄さんはこの問いを通して、身近な人間には明かすことのできない心細さややるせなさを、私に吐露していたのではないか、と。

 私の突然の問いかけに君は戸惑って、それを誤魔化すように笑った。こんなに曖昧な表情を見せる君は珍しい。

「あなたは、どう思うの」

 君は、静かな声で私に問い返した。

 わからない、と私は首を横に振った。

 これほど永く生きてきたのに、生きているからこそ、すぐそこにある自分の死について私は一片も見ていなかった。「自分の死については理解できない」と言えるほど、真剣に考えたことがなかったのだ。君は、どうなのだろうか。いつか必ずやってくる終わりを、真っすぐに見据えているだろうか。怖くなんかない、と笑うだろうか。君のいない時間を、私はどのように生きていけばよいのだろうか。

 待ってくれ、置いていかないでくれ。私はきっと君の死についてだって、知ることも推測することもできない。だって君のいない世界で、私は、今までどおりの私で生きることはないだろうから。

「やめよう、この話は」

 私は、相方とはぐれて片方だけ残った靴下を手に取って言った。

 君はただ、少し寂しそうに微笑むばかりだった。


    *


 近頃、ぼんやりしていることが多い。

 玄さんの話をしたとき以来、君の姿を見ていない。あれからどれくらいの時間がたっているのかも分からない。テレビもラジオもつける気にならない。ただ籐椅子に身体を預け、窓の外に目をやっている。目をやっているだけで、何も見ていない。ある時からこの家は、丸ごと巨大なシャボン玉に飲み込まれ風に吹かれて空を漂っており、私は徐々に世界と切り離されている。そんな空想に私自身が飲み込まれそうになる。

 ひとりでいると、どうしても不吉なことを考えてしまう。

 君は何故、姿を現してくれないのか。ひょっとするとすでにこの世界からいなくなってしまったのではないか、私が理解できていないだけで。

 心の中に黒い波が押し寄せてきて、私は光の届かない海に沈んでいく。過ぎ去っていった時間の記憶とともに、君に伝えなければいけなかった言葉が泡になって昇っていく。


 あの夜君と見上げた月は、信じられないほどきれいだった。

 君が選んでくれたネクタイ、同僚に褒められたよ。

 君がつくるじゃがいもと玉ねぎの味噌汁は世界一だ。

 さくらや夏菜子が、いつも君に向けている尊敬の眼差しに少しだけ嫉妬していた。

 いちご狩りに行こう。

 そのエプロン、とてもよく似合っているよ。


 どうして今まで、こんな簡単な一言が言えなかったんだろう。どんなに強く思っても、本当のことだったとしても、その瞬間に、私の声で伝えておかなければ意味のないことがたくさんあったのではないか。私の言葉に、君はどんな反応をするだろうか。照れ笑いをするだろうか。いいや、きっと、あなたの考えなんて全部わかってるわ、と勝ち誇った顔をしただろう。どちらでもいい、この目でそんな君の姿を見たかった。今からでもまだ間に合うだろうか。君に、伝えることはできるだろうか。

 いいや、無理だ。

 私は、海の底から空を見上げた。

 君はもういない、ここにはいないのだ。

 瞼をとじれば次々と浮かんでくる。いちごを頬張る君、雪を眺める君、散歩に出かけようと張り切る君、洗濯物のにおいに包まれた君。君の姿を眺めているとき、私は確かに生きている実感をもっていられた。それなのに私は、忘れていく。忘れたくないのに、記憶のなかから消えていく。君の声が、日常の些細な仕草が、ぬくもりが。

 私は、行き詰ってしまった。

 君は、どこに行ってしまったのだろう。

 頭上に見える水面が途方もなく遠くに思えた。太陽の光が波にもまれて優しく揺れていた。その規則的な動きを眺めているうちに、突然、意識がぱっと明るくなっていくような感覚があった。

 いや、待てよ。

 私は自分自身に問いかける。君といちごを食べたのは、雪を眺めたのは、玄さんの話をしたのは、いつだったか。つい最近、いちばん遠くても二、三日前ではなかったか。

 君はどこにも行ってはいない。まだ間に合う、取り返すことができる。きっと。

 湧き上がる希望に押され、目を開けると、そこはもう海の底ではなかった。

 私はシャボン玉に包まれた家の、大きな窓のそばにおかれた籐椅子に、身体を預けて座っていた。

 夕暮れの空に年老いた私の顔が映っていた。部屋中の静寂が一斉に私を飲み込もうとしていた。

 胸のうちに花開いていた自信がみるみるうちに萎んでいく。

 私はまた、夢の中にいたのか。君はまだ現実の世界に存在しているのか。現実の世界から消えてなくなったのは、私のほうではないのか。どこまでが過去でどこからが現在なのか。私は一体、どこにいるのか。

 確かなことは何一つとして、私の中には残っていなかった。


 電話の音が鳴り響き、シャボン玉がぷちんと弾けた。受話器をとると張りのある声が聞こえてきた。

「もしもし、おじいちゃん?」

 夏菜子だった。

「今日、おじいちゃんの家で夕飯食べるって。父さんと母さんが言ってた」

 私は、掠れて自分でも聞き取れないほどの声音で返事をした。

「ついでにマフラー、取りに行くからね」

 通話を終え、リビングへともどる。夏菜子のマフラー、ソファーの上にあったよな。私は心の中で君に問いかけた。


    *


「今夜、空いてるかな」

 高校を卒業して以来一度も会っていなかった君と再会し、勢いのままにドライブに誘ったのは、二十二歳のときの私だ。数年ぶりに故郷へ帰省し、駅前でバスを待っていたところに君が通りかかった。君は変わっていなかった。変わらずに、ありのままで美しかった。

「寒くない?」

 運命の再開から数時間後、私は助手席で窓の外を眺めている君を横目で見ながら、兄に借りた車を走らせていた。夏の気配はすっかりなくなり、物寂しい雰囲気が町を覆い始める季節だった。

「大丈夫、ありがとう」

 君は小さく頷いた。

 私は、町の西側にある小さな山へ向かっていた。その山の中腹あたりに、町の灯りが一望できる有名なスポットがあった。車は本格的な山道に入っていき、辺りは一段と暗くなる。君は相変わらず、窓の外をじっと眺めていた。

「わたしたちが初めて話したときのこと、憶えてる?」

 君の声が、車内にふわりと浮かんだ。

「ああ、もちろん」

 前を向いたまま深く頷いた次の瞬間、私は文化祭前日の喫茶店にいた。目の前には、飲み干して氷だけになったグラス。テーブルを囲むように置かれた革のソファーには、同じ制服を着た友人たちが少し窮屈そうに収まり、思い思いに話し込んでいる。

「そろそろ帰るか」

 誰かの一言でみんながおもむろに立ち上がり、順番に店を出ていく。とっくに日は暮れ、夕焼けの跡すらない。私を含めた全員がどことなく興奮していて、なかなか自宅へ向かう歩みが進まない。私もペースを合わせてかたまりの中ほどにいた。

 しばらくして何気なく後ろを振り向くと、私たちから離れたところをひとりで歩く、君に目が留まった。君は半ば反り返るようにして、空を見上げていた。何があるのだろう。私も思わず空を見上げ、立ち止まった。

 そこに見えたのは、月だった。黄色に薄いピンク、ほのかな緑が混じった複雑な色の光をまとい、優雅なたたずまいをしていた。

私たちが明日を楽しみに浮足立っていようが、理不尽な世間に憤っていようが、取り戻せない失敗を憂いていようが、そんなことには関係なくずっと、あの月は美しいのだ。そんな感慨が私のなかに湧き上がってきた。

 私は集団に置いて行かれ、その代わりに君に追いつかれた。

「月が好きなの?」

 君の隣を歩きながら訊ねた。うーん、と君は言葉を探すように、瞬きをした。

「好きっていうより、自然と惹きつけられるの。気が付いたら探してる」

 ああ、と私は分かったふりの曖昧な返答をする。

「何て言えばいいのかなあ」

 君は大きく息を吸い込んで、両手を翼のように広げた。まるで月の光を身体中に吸収しているかのように。

「ああ、わたしはここにいるな、って。息をするのも忘れそうになる。月を見てると」

 そう言った君の声は、よどみなく真っすぐに私のなかに響いた。君以外の地球上の生き物すべてが己の気配を殺し、君の存在に耳を澄ましていた。

 微かな風を受けて、君の髪が軽く後ろへ流れる。心地よさそうに目を細める君の横顔を、僕は一生見ていたいと思った。


 気が付くと、私はまた布団のなかにいた。

 どうやら、ずいぶん昔のことを夢にみていたようだ。

 部屋を見渡すとそこはまだ群青色に沈んでおり、夜明けは遠そうだ。カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいる。ああ、今夜はこんなに月が明るいからあんな夢をみたのだな。まだぼんやりとした頭で、そんなことを思う。

 私は、隣で幸せそうに寝息をたてている君を抱き寄せた。柔らかな肌の感触と、ぬくもりを帯びた髪の匂いが直に染み込んでくる。

 するとこの数日間、私のなかに巣くっていた真っ黒な海が、みるみるうちに渇いていった。

君にとっての月は、私にとっての君だ。もう私を苦しめるものはない。

 月明りに照らされて乳白色に輝く君の頬を、そっとこの手で包み込む。私は、君の腰に回したもう片方の腕に力をこめた。

 ほら、大丈夫。君は間違いなく、いまここにいるじゃないか。夢じゃない。夢なんかじゃないんだ。

 君の存在を鮮明に感じれば感じるほど、喜ぶべきはずなのに、どうしてか涙がとまらなくなった。このまま夜が明けて、すべて分かってしまうことが怖かった。

 朝なんてこなくていい。ずっとここにいさせてほしい。どうか、どうか。

 私は一晩中そう願っていた。

                                     

(了)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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