同じ共感でも、するのとされるのでは違ってくる
「共感」という行為にはどちらかというと良いイメージを感じる。
自分が誰かに共感する側であれば、相手の考え方や趣向を理解している感。つまり、自分から相手に近づいたような、寄り添ってあげた感を得ることができる。
一方、誰かが自分に共感してくれる場合。相手が自分の考え方や趣向を理解してくれている感。つまり、相手が自分に近づいてきてくれた、寄り添ってくれた感を得ることができる。
共感のベクトルが自分からか相手からか。それは一見すると違う現象にも思えるが、結果的に両者の距離が近づいたことに変わりはない。
距離が近づくということは、気を許すことであるし安心感にも繋がる(無論、近づき過ぎると煩わしさを感じることもあるため、程よい距離感も大事である)。
自分が誰かに共感する。
誰かが自分に共感してくれる。
ベクトルは違うが、結果は同じと言った。
しかし、受け取る印象は少し違うかもしれない。
自分が誰かに共感するよりも、誰かが自分に共感してくれる方が嬉しく感じる。
例えば、「これって〇〇だと思うんだよね。」という何の変哲もない主張に対して共感が生まれるとする。
この共感ベクトルが自分から相手に向く場合は淡々としている。
「わかる。自分もそう思う。」みたいなトーンで言うような感じだ。
しかし、この共感ベクトルが相手から自分に向く場合は違う。
出てくる言葉は同じ「わかる。自分もそう思う。」だとしても、「わかる!自分もそう思う!」に聞こえるのだ。
これは恐らく、自分が共感されるシチュエーションが多くないからだと思う。自分は性格的に自分の事をあまり話さない傾向にある。
だから数少ない自分の考えや趣向を話す機会で共感されると、嬉しく感じるのだ。肯定されているように。
つまり、自分にとっては共感するよりも共感される方が価値が大きいのだ。
この感じ方をわかってくれる人はいるだろうか(間髪入れずに共感してくれアピール)。
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