【ショートショート】おおきなのっぽのふるどけい

壁一面に時計のある締め切った工房。そこが親父の仕事場だった。親父は時計職人だった。齢はもう100を超えている。朝は6時に目を覚まし、7時に工房に入って、18時ぴったりに工房から出てくる。そのルーティーンが崩れたことはほとんどない。まるで時計のような人間だった。

親父は気に入った客にしか時計を売らない。作った時計は娘みたいなものだから、半端な奴にはやれないのだと言っていた。だから親父の工房にはいつも売られていない時計がたくさんある。固定客は多く、一部の界隈では評価が高いらしい。全部を売れば相当な額になることは当時の俺でも分かるくらいだった。実際そう言ったこともあったのだが、親父は頑として首を縦に振らなかった。だから俺が学生の頃から、うちはいつも貧乏で、田舎のぼろい一軒家に身を寄せて暮らしていた。

この街に戻ってきたのは40年ぶりだ。親父の年齢は今日で100になる。親父より10年下の母が亡くなって、俺が様子を見に来る必要があった。久しぶりに会った父はすっかりやせ衰えて、昔の姿は見る影もなかったが、時計作りの腕は衰えていないようで、久しぶりに見た工房の壁は膨大な時計で埋め尽くされていた。

俺が到着した時、親父は6畳の居間で一人寝ていた。死んでいるのではないかと心臓の音を聞くと、トクトクと音を刻んでいた。起きた親父は俺の姿を確認したはずだが、何も言わずに立ち上がって工房に向かった。俺のことを覚えているかも怪しかった。しかし、その眼光には鋭い生気が宿っていた。その目を見ているとまだくたばりそうにはないように思えた。

それから数日が経った。坂道を登った先の並木道に蝉の声が残っていた。8月も下旬に差し掛かる。ピークは過ぎたがまだ暑い。工房にはエアコンが一台のみ。じきに必要なくなるだろう。そう思いながらも親父がいない間に工房に入り、エアコンを開いた。これがきちんと稼働しないと、この暑さでは耐えられないだろう。これも念のためだ。

それから数日が経った。蝉の声もかなり少なくなった。親父は今日も工房で時計を作る。黙って飯を食うと、でかい体をのそりと立ち上がらせて工房へ向かう。つけたニュースではキャスターが異常気象を告げていた。この暑さは9月まで続くらしい。スマホを開くと数十件も電話が来ていた。分かってるよ、と俺は呟く。もう少しだから。

それから数日が経った。いつも通り工房に行った親父は18時になっても戻らない。締め切った工房を外から開ける。親父の横には作りかけの時計。針は時を刻まない。親父は床に伏せっていて、工房の扉に手を伸ばしていた。

俺は親父の様子を確認して、119に電話を掛けた。救急車はもう間に合わないことは分かっていた。100年動き続けていた親父の心臓はもう動いていない。俺は工房の扉にかけていた南京錠を雑木林に捨てて、壁一面の時計を見た。スマホを開いて折り返しの電話を一つ入れる。

「すみません、借金の件ですが返す宛ができまして……」

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