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【エッセイ】「美味しさ」について


まだ文章教室にも、小説や随筆の公募にも応募していなかった高校生の頃、ブログを書くことに打ち込んでいた。あの頃も現在と同じように、なかなか文章のネタが思い浮かばなくて困っていた。
 そこで、当時お世話になっていた先生に
「先生、ブログの記事書きたいから、テーマ考えて!」
 と、聞いてみたことがある。
 先生からは
「美味しさとは何か、でどうです?」
 と返ってきた。
 自分で聞いたにも関わらず
「え? 美味しさとはって、難しいな…」
 と思った。
「なるほど、書けたら書きますう」
 という感じで曖昧に返事をした気がする。

「美味しさとは何か」
 私が当時、このテーマを難しいと感じ、書くことを挑戦しなかったのも、無理は無い。
そもそも、何に対しても自分なりの「定義」を示すことは難しい。それが「感情」や「感覚」なら尚更で、「高校生」だったあの頃の自分の言語能力から考えても、難しいと思う。
 また、日本に生まれ、一般的な経済的環境の家庭で育ち、学生生活を送っていた私は、他者から「美味しさ」を当たり前のように享受できるだけの、恵まれた環境があった。両親からお小遣いを貰い、その中から好きなもの買って食べること、学校から帰宅するとご飯が用意されていた「普通の子ども」だった私は「食」と真正面から見つめなくても、十分に生きていくことが出来た。

ただ、「美味しさとは何か」という問いに、何の心の引っ掛かりも、感じなかったわけでは無かった。
「美味しい」と感じている自分に対して、昔から、ときに、後ろめたさを感じることがあったからだ。
 例えば、極度に貧しい生活を強いられているアフリカの子どもたちのニュースを観た時、遠足で弁当を持ってきていない子や運動会で一人、コンビニの弁当食べている子を見た時…。
『自分が当たり前に享受している権利を持てない人たちがいる』という事実に対し、無自覚に生きている自分自身に、罪悪感を覚えることがあった。そういう、自分に与えられた『当たり前の幸福』を投げ出さなければならない気持ちに、なったこともある。その気持ちが、とても傲慢であるということも、わかっていながら。
そして、こういう感情に包まれながら食べる時のご飯は、「美味しいけれど、美味しくなかった」。

ここまで書いてみて、「美味しさ」とは「自分の目の前の幸福を、素直に受け止めることの出来る心の状態」にあるのかもしれないな、とふと思った。「美味しいな」は「幸せだな」と受け止める、ということなのかもしれない。それならば。私にとって一つ、忘れられない『美味しさ』がある。

 高校一年生の頃、私は一年間限りの下宿生活を送っていた。小学生の頃からやっていたスピードスケートを本格的に取り組むために、地元の浦河町を離れ、帯広の高校に進学したのだった。(余談だが、私の下宿生活が一年限りだったのは、歳子である弟もスピードスケートのために帯広の高校に進学したからだった。弟が来てからは、アパートでの共同生活になった。)
 あの頃は、新しい環境に順応していくことが大変だった。学校生活そのものは勿論だが、部活動がとにかく辛かった。激しい練習に取り組んでいるにも関わらず、ストレスで、入部してから半年経った頃には、体重が八キロも増えてしまった。
 食生活を振り返れば、それは当然のことだった。下宿で出された食事をお代わりしていた上に、近くのコンビニエンスストアで、ほぼ毎日、菓子パンを三つから五つほど購入し食べていたからだ。
 そういう自分に対して、勿論「まずい」とは思っていた。部活動では、体重管理や体脂肪を減らすことが重要だと言われているのに、そういった管理を怠り、ぶくぶくと肥えていく自分。対して、同じ下宿先に居ながら、揚げ物やお菓子類は一切食べず、鶏肉の皮は取り除き、決まった時間にプロテインを飲むという徹底ぶりを見せていた先輩方の姿を見ると、罪悪感で押しつぶされそうだった。けれど、どうしても、やめられなかった。常に何かを食べていないと、気持ちが不安定になっていた。栄養バランスの偏りで、身体中にニキビが出来た。
あの頃の食事も、「美味しいけど、美味しくなかった」。
 ある時、そんな私の状況を見兼ねた友人が、私を自身の住む家に招いてくれた。
そして、具沢山の味噌汁を作ってくれた。
「これなら、罪悪感も少ないでしょう」
 私は頷いて、一口飲んだ。
「美味しいなあ、美味しい」
 涙が出そうだった。にんじんにごぼう、じゃがいも、油揚げ、長ネギ。沢山の食材が入った味噌汁はほんのり甘く温かく、身体中に巡っていくようだった。
友人も一口啜った。
「美味しいね」
幸福を、共に分かち合ってくれた。
「うん、美味しい」

 食べることで、罪悪感に駆られ、否定してきた自分自身を、『肯定』に変えてくれたのは、あの一杯だった。私は、あの『美味しさ』に救われた。
 『食』は命そのものを繋ぐが、『美味しさ』とは何か…と問われれば、それは私にとって、自分の存在が肯定される瞬間、また幸福を素直に感じられる、かけがえのないものだったと言える。
そして、私がこれまで『当たり前』のように食べてきた両親や祖母の『美味しい』手料理には、そういった私への思いが沢山詰まっているんだろうな思うと「私って愛されているんだな」と、改めて感じる。だからこそ、『美味しさを通して、幸せを受け止める』ということを、躊躇してはいけなかったんだなとも、思う。それが例え、飢餓に苦しむ子ども達を思っている時であっても。
 決して冷たい意味では無く、自分の目の前にある幸福を受け取り、感謝し、誰かの幸福を願う。それは両立するはずだろう。

私も、私以外の全ての人々も、毎日が『美味しい』で満たされますように。

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