『考現学入門』②事例を読み解く
主催している『考現学入門』勉強会も第四回が終わりました。
前回のブログでもご紹介した通り、まずは『考現学入門』で今和次郎が述べている「考現学とは何か」についてを参加者で共有し、現在は『考現学入門』に記されている事例を読み、辞書的な考現学の理解から一歩踏み込んだ考現学の「観察の姿勢」「生活へのまなざし」を読み解いています。
勉強会の議論の中でとても面白い「観察の姿勢」「生活へのまなざし」、考現学にかかわらない調査やデータに対する感覚を参加者と共有できたので一部ブログでもご紹介したいと思います。
考現学における観察の姿勢について
現在私は並行して生活史を取り組んでいることもあり、調査というものは大前提として(どんなに配慮をしたとしても)暴力であるという認識を持っています。考現学入門が書かれた大正時代にそのような意識があったかは不明ですが、P154から始まる「本所深川の研究」では今和次郎はこの時の調査のことをこのように書いています。
「断っておきたいのはこんどの調べは、調べをなすにあたってほとんど対象者たちには感知されないようにしたことです。ポケットのなかで、ポケットの手で大多数のノートがとられたのです。」(P163)
「私たちは最初の日以来、服装にも表情にもそこの地方色に同化するように努めて、つぎの日からこれらの人たちに眼をみはらせるようなへまをしませんでした。」(P170)
この部分から自らの暴力性を感じた、とまでは読み取れないにしても、調査を堂々とすることは許されない、対象者からの視線のようなもの、空気感、気まずさを感じたと読み取れます。
今も「考現学総論」という章では考現学の採集についてこのように述べています。「われわれの仕事の対象の性質上、ほとんど絶対的に実験的研究は不可能といえるからである。実験とはわれわれからみると研究対象を非生活態化することであるからである。一人の人を箱のなかにいれて研究対象とすることはできない。」(P396)
しかしⅣ章の「カケ茶碗多数」という調査では対象物を変えてしまおうという意識が見られるのです。「ある食堂の茶飲茶碗はいかにもきたなく、カケ茶碗が多数だったから」「多少うっ憤的戦闘的表明をしようとした」等々。結果として、毎日通ってカケ茶碗をスケッチし、それを展覧会に出した結果、その食堂は茶碗を新しいものに替えてしまったのでした。
今らはこの調べを「光栄ある採取図」と評していますが、研究対象を非生活態化させてしまった、考現学のモットーを自ら破ってしまった調査なのではないだろうかという鋭い意見が勉強会で出ました。
このように宗祖である今和次郎のなかでも姿勢に矛盾がみられますが、私は改めて研究対象にできるだけ接触せず、観察に徹する態度で行おうということを思いました。
考現学を再考する
『考現学入門』を読んでいると、なんとなく調査に対する考察の踏み込みレベルにムラがあるように感じることがあります。これは自然な読み方をすれば今が観察から面白い考察することができたかどうかで記述するかどうかを判断しているから、といえるでしょう。
また考察についても全体的に緩い(主観的、感覚的な)印象が全体として漂っています。たとえば「洋服の破れる個所」を数値化して「(右ポケットよりも)左のほうが多く損じているのは、普通右手を働かして左手はポケットにいれてることが多いから」などと考察しています。
現在の私たちが調査をするとき数字は正しさの尺度となって、アンケートを集計しグラフ化したり、統計的な処理などを行います。
考現学も数字自体は重視しているものの正しさの尺度というよりは「想像を働かせるための道具」なのではないかという意見が参加者からは出ました。数字が正確性ではなく想像の手助けになると考えると先ほどの考察のムラにもつながってきます。
統計学では考察できないデータをはずれ値として扱い、時に除外するようなこともあります。しかし考現学の観察は、はずれ値と思われるデータについてもそのまま記録として残します。(P107 当時でいえば洋服を着ている女性など)
それは事実に対して正直な姿勢であるといえるし「考察はできなくてもいい。観察自体に価値がある」という姿勢は、考察のためにデータを加工する、統計学的操作を避けることに繋がるのではないでしょうか。
また『考現学入門』のスケッチに惹かれたり、現在のようすとの違いを感じて楽しむことができるのは、今和次郎が分析ありきの観察をせず、観察自体に価値があると考え、生のデータを残してくれていたこそだと思います。
考現学を行うときは、まずは目の前で起こる事象に向き合い、その中で考察できるものについては考察をしよう(その考察さえもある程度の方向性が見られればよく、隙があってもよい。むしろ隙があったほうが議論が生まれ、考察の精度が高まるといえる)というくらいの心持ち(温度感)でやっていくのが良いのではないでしょうか。
少なくとも目の前で起きた何らかの事象をデータとして残すことが大事だということは今と意見が一致するのではないでしょうか。これを読んだ人も些細なものであってもいい、「なんでもない」生活の記録を実践してもらえればうれしい限りです。
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