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それは何故なのか?(自己肯定感の話

なんだぁ?我思う故に我ありってやつかぁ~? byコアラ

まぁ、そんな感じですかね?

ちょっと今回は視点とか、切り口を変えてみると言いますかね。

あくまで私個人がそうあるだけ、とも言えるのですが、そこには人間としての心理みたいな物がありますし、自分で自分を掘り下げてみると、やはり感受性も絡んでるという感じも否めず。

その辺について、感受性とかと合わせて触れてみようと思います。

経験談から書く部分故の悪さがあるのは承知です。

でも、逆にそういう内容からも見える物、知れる物があるとも思うので、ご容赦くださいませ。


自己肯定感はどうですか?

正直、低いです。

というよりは、

「人の振り見て我が振り直せ」を割と地でやってしまうので、良い部分と悪い部分を相殺させる事で可能な限り客観的に自分を見つめたい、見つめよう

そういう心理が働いてたりします。

結果、自己肯定感という言葉や概念については、差し引き0のニュートラルになってる、そう言えるという部分があるんですよ。

兎に角、色々感じ取ってしまう。

良くも悪くも、自分だけでなく他者から感じ取る部分もあって、善悪や正誤という良い悪い、あれがダメこれがダメというより、「何故そう思ってしまうのか?」を掘り下げて突き詰めてしまいがち。

そういう部分から、個人基準の善悪二元論の横行に嫌でも気づいてしまうだけでなく、異を唱える事にもなってしまう。

それに対して異を唱えるには、まず自分がそれをきっちり抑えなきゃいけないという心理も働くんですね。

なので、自分が正しい、自分の考えが良いというのをまず否定するし、肯定もするという感じです。

まぁ、感情にも左右されるので完璧では無いのですが。

こういう部分が結果として、自己肯定感が低いという言われ方をしすぎてしまい、言われる事で言葉に縛られて、自分は自己肯定感が低いんだと思い込む。

とはいえ実際は、低くも無ければ高くもないという状態になってるだけだったりします。

うん。

それが実態なのですが、そこにはまぁ色んな仕掛けというか、思考や心理の働きがあるので、その一部に次で触れてみたいと思います。


呪の字の成り立ちから

過去の記事でも触れてはいるんですけど、改めて。

呪という漢字のは、もとは祝。

祝というのは、祝詞という言葉があるように、儀式の形で準備をして神様に奉ずるというという感じで、形式を整えて行う物でもあります。

それを、口に出して唱えるという事で、簡略化させたものと言う所から口=くちへんになって、呪という漢字になってるという説があります。

これを真に受けるというわけではないですが、自己暗示の方法というか、口に出して唱える事で耳に入れて定着させるという手法や技法も見聞きすると思います。

まぁ、言い方が悪いですが、それを周囲にやられてしまう。「自己肯定感が低いのは良くないよ、ダメだよ」という感じでね。

こういう部分も、何でか不思議と周囲が嫌でもそう言ってくるので、自身でも疑問に思い始め、それが経験として積み重なるうちにやっぱり自分は自己肯定感が低いのかな?という風になり、そう言われる事が多いのでそうなんだとなってしまう

こんな感じで、自分以外の他者の言葉から、暗示をかけられてしまうという部分がある。

あくまで、部分があるというだけで、これが全てと言うわけでもないんですけどね。

こんな感じで、掘り下げて辿り着いた答えみたいな物に対しても、そうでも有るしそうでも無いというのが割と基本です。

変な話、言われ過ぎるというのもある種の呪いみたいなものかな、と言う所です。

こういう話をすると、真面目過ぎとか、ストイック過ぎとか、別の言われも発生するんですけどね。

ただ、良くも悪くも、自分は自分という感じで、最終的には良いも悪いも清濁併せ呑むという状態に落ち着くのが本質に近い部分とも言える。

そんな感じなんですよ。

こういう部分にきづいて、自分で制御できるようになれば、ある程度流せるようになるんじゃないかな?とは思いますけどね。

という事で、次に行きましょうか。


自己肯定感って必要?

結局の所、何にしても何故そうなるのか?と思案してしまう。

そんな感じなので、個人的には自己肯定感って必要かな?という疑問も併せ持ってたりします。

肯定にしろ、否定にしろ、これって対義語なので、肯定があるから否定もあるという部分もあります。

そしてこういう対になる言葉があると、価値観や立場、生い立ちや性格という個人が持つパーソナルの部分で判断がどうしても分かれてしまいます。

そういう部分を考慮すると、過剰な自己肯定は要らないのでは?ってなってしまうんですよ。どうしても。

というのも、

自己肯定感を持つのが正しい=自己肯定感を持ってない人は間違ってる=こうする事で自己肯定感を高める。

他者の自己肯定感に対して物を言う人って、無意識とか深層意識という部分でこういう事をやってしまってる「可能性がある」という見方も出来てしまう。あくまで、可能性なので、絶対にそうあるみたいな否定もしません。

ただ、そういう部分を加味すると、他者を利用して自己肯定をしてる。ともいえるし、また私自身がこうして自己肯定感を高めてるとも言えます。

いってる本人がやっちゃってるんですよね。他者を使って自己肯定感を高めるという行為を。

うわ、すっごく嫌らしいというか、冷静が過ぎて辛辣ですね。自分で言うのもおかしいですが。

ただまぁ、厳密に言わせてもらえば、自己肯定も自己否定もしますし、自己肯定も自己否定も過剰にはしない、そういう中道という言葉とその在り方みたいなのを、自然とやってしまってるだけ、とも言えるんですよ。あくまで、自身に限るという話ですが。

なのでまぁ、変わった人になってしまうというのも否めません。

うん、人間って難しいね。

まぁ、見出しで必要?と問う形にしてるので、結論を出すとすれば必要でもあるけど、過剰にしてしまうと、他者否定に繋がりかねないので、自分でコントロールする必要はやっぱりありますよね、という結論に辿り着く。

そんな感じです。


自分で制御しよう

今でこそ、こういう風に言えるようになりましたが、私自身もやっぱり自己肯定感の低さについては、悩んでた時期もありました。

そう強くは悩んではないですけどね。

ただまぁ、こういうのって、どうしてもより強くとか、過剰にとか悩んでる人も居るなぁというのは、日々の生活でも感じる所です。

人によっては、自己肯定感が低すぎて体調が変化したりする様にもありますし、メンタルが落ち込む原因になってるとも思います。

そういう意味では、過剰にそう考えない事、思わない事も大事ではないでしょうか。

また、自己肯定感が低いという自己認識=自分でそういう部分を受け止めて、それが自身の弱点、悪い所だと「肯定できている」とも言いかえれます。

逆転の発想っていうんですかね。

肯定ってそう判断して、認めてあげるという意味であって。

逆転の発想をする事を自身に落とし込む事が出来れば、そういうのも自分なんだと認める事も出来て、結果として「自分で自分を許してあげれる」という、許しに繋げる事も出来ると思います。

うん。

そういう意味では、自己肯定感が低かろうが自分で認めて受け入れてあげるという、制御が自身に根を張れば意外と悩みから抜け出られるのかもしれないですよ。

とはいえ。

色々感じすぎる人にはそういうのって意外と難しいんですよね、という事で、次はそういう部分を触れようかと思います。


感じ取れるからこそ、難しい

人間も何だかんだで、集団という群れを作って生活する生き物です。

感受性が高すぎると、悪い方での共感が働いてしまうという部分もあるんですよね。

自己肯定感という言葉を今回メインで扱ってるので、そこに焦点を当てれば感受性は関係ないのですが、それはまた別の話です。

感じ取り過ぎるとどうしても自分の中で波が立つ。

波が立つの言うのも、神経だったり思考、というか脳だったりに、信号が走ると言うか悪寒の様な物を感じて、体調にすら少なからずの影響がでてしまう。

それが深刻になると、眩暈や吐き気を覚えてしまうし、私個人の話をすれば空嘔=何もないのに「おえええええ!!」って声すら出てしまうし、実際に胃が吐き出すような動きもするんですよね。内容物が出なくても。

そういうのが人目に触れると、こちらの内面お構いなしに、体が弱いとか余計な言葉を浴びせてきたりして。

しかも、いくら説明しても自分と違うからお前は体が弱いという、違うからこそ見せてる部分を悪く言ったり否定したりするのが悩みどころ。

別に迷惑かけてるわけでもないし、多少は嫌悪感覚えるかもしれないですが、かと言って否定の言葉を浴びせると、悪化する一方なんですよ。

そして、感受性が高すぎるが故に見せやすいタイプでもあったので、幼少の頃から嫌と言うほど、こっちの実情お構いなしに叩かれるというのも散々経験してきてます。

ほんとね、すごくシンドイので分かって欲しいんですよね。


まとめ&後記

という事で。

後半はお気持ちが少し溢れただけでなく、話が少し脱線したようにもありますが。

まぁ、ふと自己肯定感という言葉が頭に浮かんだので、そういう言葉や概念という切り口から、またアレコレ書いてしまいました。

経験談からしか言えないはもどかしい所、なんですけどね。

何はともあれ、主に扱った自己肯定感というのも、難しさはあれど自分で乗りこなすしかないかなぁと思います。

また、感受性が高ければ色々感じ取れると思いますし、そこを上辺だけにせず、何でそんな風に感じたんだろう?って自分に問いかけてみると、思わぬ形での収穫があるかも知れません。

ただ、それが過ぎて自画自賛かつ空回りにならないように。

注意しておきたいところです、ね。

それではこの辺で

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