経験から語ってみる10(主観と客観の話
さてさて。自分目線程度でしかないとはいえ、
主観と客観、客観視なんかを語ってみましたが。
個人の経験として深くかかわってくるのが、
真面目だ、それは違う論争、です。まぁ、論争ってほどでもないのですが、否応なしについて回ると言うか、無意識、無自覚での行動、個人差と言える範囲の部分、そこが違ってるからそういう判断や解釈をされるだけでしかない。
いくら説明しても、あいつはああいうタイプだから、になりゃしない。とにかく、それを伝えてどうしたいの?と聞くと、言っただけ、話しただけ、という感じで、話したいから話したはいいけど、話す事で相手にどうなってほしいのか?という要求じみた部分もないんですよ。
とんでもない迷惑です。無駄に聞かされる身としては。
無駄に聞かされる=無自覚、無意識で行ういわゆる普通の行動に対して、自分と違うという相手主観の理由から、これまた私に対して何も求めないけど言いたいだけという主観が過ぎる言い分から、余計な事を言われる。
そういう状況の説明だったりするんですよ、ね。
HSPかは知らんけど、感受性が高いって言われるだけで、それが日常なんですよ、ってね。
今日はそんなとこからスタートです。
主観が過ぎる周囲
違うから、は構わないです。だって、人それぞれ違うのが当たり前で、だからこその個性とか多様性とか、人種、国、宗教というように、何かしらに該当する、所属する人と切り分けられもするのが当たり前で。
それなのにまぁ、迷惑かけるどころか、無駄に面倒抱えないで済む状況を生むほどに真面目なのを突っ込まれても、突っ込まれる側って凄く困るんですよ。
私の場合、感受性の影響なのか当たり前のように自分を超えて、自他どころか場や環境という所まで視点や判断が割と瞬時に行ってしまう。
そしてつい、場や環境に対しての対処と言う行動に出てしまう。
という感じで、客観的に見ると、感受性が高くて色々察し過ぎるだけでなく、それに対しての判断や取捨選択もあっと言う間に済ませて、じゃあどうするか?と言う部分から、自分から進んで面倒を引き受けて片付けるという行動に出ていた、という個人の行動がそうあるだけという話になります。
で、自分と違うから、変、おかしい、ありえないは構わないんですよ。ただ、そういう感想みたいな場合、そう感じた人個人の主観しか入らないんですね。
だから、それで物を言ったところで、言われた本人には響きやしないんです。
それ、貴方が勝手にそう思ってるだけなので。こうなってしまうんですよ。
そして、真面目だ、それは違う論争というのは、主観でお前は真面目だと言ってくる周囲と、自分の事だけど自分に限らず他者やその場の流れ、空気、それから連想される少し先と、結構広めの客観で言い返す私という構図の表れだったりします。
そして、その構図というのがミソなんですね。
こう、HSPについての触れてる内容でも、感情的になってる部分もあれば、自分語りの様で単純な状況説明をしてるだけ、という内容も多いと思います。
まぁ、それがどうした、だからなんだ、も良いのですが、かと言って自分はそうじゃないとか、自分は違うと思うというと、自爆するんですね。
主観しか扱えてなくて、冷静に判断出来てないですよね?みたいな。
最近のネットで見る色々も、そういう主観しか扱えない人が暴れてるだけという、世の中の有様の表れだと、個人的には判断してたりします。
それもそれで良いんですけど、争いを生むだけでなく......
自爆=自分が不快、不愉快になる種を自分で蒔いて、勝手にイライラしたり感情的になってるだけ。
相手が悪いんじゃない。
自分も悪い、と言う事になるんですよ。自業自得、因果応報なんですね。
ホント、やれやれです。
改めて問う、客観視の大事さ
自由や平等も良いんですけどね。
相手にも感情や立場、経験、置かれた環境と、様々な物があり、自他ともに複雑に絡み合うからこそ、人間って難しいんですよ。
それを論破だ、正しさだ、個人の自由だ、個人の意見だ、と兎に角自分だけという主観だけでの話を溢れさせたら、傷つけるだけでなく、自爆もする。
平和ボケもここまで来たのね......
と、なんかこう、汚物は消毒だー!!を言葉でやってる世紀末ですか?今はみたいになってしまってると思います。
会話、対話、議論って言い負かすための場ではなく、お互いに話し、話され、そこから考えて歩み寄る為の場で、そういう場に出来るからこそ、平和って構成されるようなもの、と思います。
なので、主観だけだと、血の流れない言葉という武器での戦争にしかならないんですよ。
戦争だって、お互いに家族や大事な人が居るのに、自分たちの国益を優先する余り、違う他国に攻め入って武器で命その物を奪うじゃないですか。
また、昨年は誹謗中傷による自死が取沙汰された事がありますよね?
なので、普段から血が流れなかろうが、行き着く先として言葉ですら命を奪うというのは変わんないんですよ。大袈裟とかそういう話ではなく。
主観からの物言いって、自分が優先され易い分、感情ものりやすくなりますし。国益だなんだも、言葉で飾ってるだけで、自国の都合とか感情が根底にあるが故の戦争でもあるんですね。
でも、そうあるからこそ長引くと疲れたり、疑問を覚えられたりもする、と。
なので、我慢しろと言う話でもなく、一歩立ち止まって冷静になり、物事を幅広く見る、客観視って今の時代ほど大事になってるのでは?と思います。
こうね。縛り過ぎると、どうしても窮屈になるというのもあってか。
そこに、感染症の騒ぎもあって、言葉を使ったイジメが横行してますよっと。
そんな感じじゃないですかね?
正しさとは、愚かさとは、それが何か見せつけてやる、で始まるうっせぇわ!という曲では無いんですが、口うるさく言う相手にうっせぇわ!してるのは持て囃すのに、自分が口うるさくなってうっせぇわ!される側にもなってるって気付けないのは、流石に、ね。
ホントこう、正しさを叫び過ぎる、愚かさを、その他大勢が歌以上に見せつけてどうすんの?
うっせぇわ!も客観的に見て聴いて、判断してというのが、必要な事って学べる歌だとも思います。
自由だ、平等だ、権利だ、言うのは良いけど、主観ばかりじゃなく、客観視も扱えなきゃ相手側の自由と権利、平等を踏みにじるだけにしかならないんですよ。
やれやれです。
こういう事を言うから真面目過ぎ、ごちゃごちゃ口うるさい。そう感じ取ってくれるのは構わないですが。
俺は良いけど、お前はダメっていう、ジャイアンかよ...って呆れもしますよ。
一体何の繋がりが...?
HSPや感受性と、客観視。一体何の繋がりが?って感じですが。
あくまで、個人ベースで言わせてもらえば、普通にそうなるから、です。
感じとり過ぎる=自分以外の他者、場、環境だけでなく、過去の歴史や時代背景からの類似性っていう点の繋ぎ合わせから、相当に広く見えてるのが普通のラインで、物事に対して考えるスタートラインなんですよ。
自分の事もあるけど、ストイック過ぎとか、なんでお前は自分に厳しく他人に甘いなんだ?って言われる程に、自他を同じラインに乗せて客観視で色々見てるからっていう。
まぁ、至極個人的な言い分なのですが、敏感っていうくらいなら、他者にも余裕で気付きますよね?でも、なんで?ってくらいに、現状がとんでもない状態なんですよ。
生きづらい、生きやすいとか、自分が、自分たちが生きやすければいいなんてのは、独裁的な考え方ですよっと。
そういう意味では、周囲が自分に気を配ってくれなくても、自分は周囲や他者に気を配ってるのが当たり前なんです。
うん。普通に客観的になっちまうんですよ。感じ取り過ぎて敏感どころか、それはもう鋭敏じゃないですか?とか言われますし。
この辺ねー、最初はやんわりしてたのですが、やんわりしてた頃と今の外的な反応の変化とかも、結構冷静に見て、やっぱりなぁ、こうなるかなーって実感するとともに、
こりゃ、5人に1人とかいうフレーズ見なくなるわけだという、裏付けを他者が勝手にやってくれるっていうね。
感受性高いと、良い人で居られなくなるくらいに、色々気づき過ぎて、罠だトラップだをこっそり仕掛けるんですよ。
悪い意味での特徴として、見えすぎてるので図星を突くレベルでの嫌味とか簡単に言えるんです。
ただ、良心とか良識と言う観点から、普段からしてないだけなんですよ。
客観視とか、客観的に見る、も行き過ぎると人を傷つけかねないので、主観に戻って感情がどう動くのか?っていう確認もします。
なので、どちらかではなく、両方使えた方が良いんですよ。
そして、感受性が高いとかHSPっていうくらいなら、イチイチ言われなくても幼稚園児という幼い人間であっても、自然と気づいて学んで物にして、そうあるようになるんです。
こういう風に核心を突くととんでもない、跳ね返りがある要素なんですよ。HSPだなんだって言うのは。だから、素人手で扱うには、相当に経験積んでないと無理だとおもいますよ。
そして、それはカウンセラーだなんだも、同じって言うか。
少し項目切り替えますね。
これでも抑えてるので
冗談とか。オタクだから厨二病とか、そういうのは構わないですが、ホントこう言う部分は強いです。
自然と客観視の様になるだけでなく、自分の跳ね返りは当然として、自他含めた環境や、場、状況、全体の流れ他色々自然と意識が向くんですよ。
なんかこう、言い表せないものも感じ取ってるのが、日常で当たり前なので。
そうあるから、嫌でも配慮とかもしてしまうんですね。
また、精神科通院してますが、薬の効果も感じられない、改善があまり見られないと言うのも、相当に抑えて隠してるから、実は通院なんかも強いストレス要因になる場合もあります。
毎回じゃないので、舐めてるとか、バカにしてるとかそういう事じゃなくてね。
ホントこう、冗談で言える人から、お前はニュータイプか!とか冗談とはいえ言われるくらいなんですね。
うちの父親も、何もしてないのに突然背に向けてる視線に気づいて、声かけたりするもんだから「お前はエスパーか!?」みたいに言うんです。
何で気づけるのか理解できない......。
そういう、人の理解の外みたいな行動もとるんですよ。
で、抑えないと通院なんかも、医師や臨床心理士という方と喧嘩でもしにいったの?って言わんばかりに言葉でバトルする事になりかねないから、
出さないっていう選択するんですよ。
最近は出せるようになって、少しずつ出してますし、受け取ってもらえてますけど、そうあるので処方にも相当に困ってるようですし、私の方が本音を隠すので臨床心理士の先生からも、言葉の扱いが上手い、言語性についてはIQで示せない部分も持ってるという相手なのにぼかし過ぎてるから「何をどうしたくてカウンセリングを受けてるのかがわからない」って言われます。
だって隠してるし、臨床心理士相手に隠し切れるって証明なんですよ、これ。まぁ、全員にそうあれる自信はないですけども。
ホントこう、色々感じ取り過ぎてて意識しなくても、そういうトラップとか相手にとってのフラグみたいな事も出来てしまうんでぇすよぉ~~~う。
HSPカウンセラーとか居るようですが、多分嫌らし過ぎてイライラして、屁理屈こねてる!とか言わせる自信もあるような、ないようなという感じです。
相手を怒らせて屁理屈だといわせるのは自慢にならないですが、得意だとおもいます。っていうか、嫌でもそういう事をやるケースもあります。考えが及ばないからこそ屁理屈って逃げてるよね?みたいに。
だから自分が面倒くさいとも言うし、自分で自分が嫌いともいう。
ただ、どうしても感じ取り過ぎてて色んな物を自然と取り込むからこその中和もされてしまい、トコトンそうあるにもなれないんですね。
バランスもとろうとしてる部分もあれば、勝手に取ってしまう事にもなるっていう部分も持ち合わせてるので、ややっこしいんですよ。
そして、感じとるだけでなく、処理もしてるんです。
DOESのDがいう深い処理をしてるので、処理した物を取りだそうものなら、お前おかしいんじゃないの?にしかならず。
その処理も、幼稚園児というだけでなく、今以上に精神的、心理的な部分に厳しかった昭和という時代も終盤程度ですが、親には愛想振り撒いて隠して自分で向き合ってきてるので、とんでもない部分になってたりもします。
それが自覚出来てしまってるから、出せない、出さないっていう話なんですよ。
まぁ、イマイチ実態がわからない、雲をつかむような話でしょうし、高卒のバカが何言ってんだ?と受け取られそうですけどね。
こういう事も他者から指摘されずとも、自分で把握出来てるからこそ冗談めかして言う事すらやるんですよ。
ちなみに、五感の話が少ないのは、我慢でやりすごせるから、です。
そうじゃなきゃ、生きてけんわい。光なんて蛍光灯ですら邪魔だし、日中くらい太陽で十分だから消せよwっても、そうじゃない人には辛いですよね。明るさが足りない状況で目を酷使というのは、目にもいい影響がないですし。
蛍光灯を消せなんて、少数どころか一人だけって事が多いので、言えないんですよ。少数派もくそもない程に、いないですから。
実際問題として、そういう光が無い方が普通なので、個人としては目を酷使って事にならないですし、疲れもしません。蛍光灯がある方が、ノートやルーズリーフ、紙からの光の反射で、目や視神経がぐわんぐわんするレベルですから。
ただ、苦痛で我慢できないにはならず、相応に時間かけて慣らせばそれなりに慣れてくれるんです。まさに人体の神秘ですよ。こういう部分でも、お前どうなってんの?wとか言われるので、人体の神秘じゃー!神の御業じゃー!って冗談めかして周りに必要以上に気にさせないって言う配慮もするくらいです。
うん。
なんかこう、やっぱり溢れますね。
だってもう、40年近く付き合ってるし、だからこそ疲れてるけど、体は取り換え用が無いから、死ぬまで付き合うしかないじゃないですか。
それを他者に強いるわけにはいかない。
生きづらいとか、アホくさすぎなんですよ。
と言う事で。
あとがき
まぁ、色々書いては見る物の。受け取り手の受け取り方と言うのがあって、文章にする以上好き勝手書いてるだけじゃダメかなって、抑えてたのですが。
抑える事になるのは、やっぱりストレスのようです。
死を覚悟した母親が、謝るくらいですからね。生まれつきに示してたものとして気づいてたのに、油断してしまったっていうくらいですし。
こういう話も、された身としては色々感じるのですが、それを言葉や文章にして伝えても伝わった試しってあまりないんですよ。
なんかこう、ズレて伝わりますし、それも仕方ないわけですが、相手が不思議がるのですり合わせしようとしたら、合わせられない。
流石にもうそれは過ぎてて、何と言って良いのかわからないっていう相手の方がまだマシと言うんですかね。
そういうつもりで話したわけでもないのに、それは精神的虐待だ!とか、あんたの親は親失格だ!とか言われたりもして、えー!?そっちいっちゃったのー!?する事もあります。
まぁ、精神的虐待って側面はありますけど、それは今の基準だとそうで幼い頃は違う基準だったので、そうなったのは仕方が無いって側面もあるんです。と言う風に、総合的に整理し過ぎるって部分もあります。
何が良い、何が悪いじゃなくて、なんですね。
苦労ではなく、苦痛と言う意味では相当に苦痛でした。でも、それも言葉で言い表して伝えられるような辛さじゃないと思います。
同じように幼いながらも感受性として、色々察して、大人には心配させない様にしっぽ振って、実は隠れて自分で立ってましたって嫌でも言ってしまうっていう、同じレベルが必要になってしまうし、出会った事がないんですよ。
こういうのを共感性って部分から話すと、私の方は重い経験をしてる分辛さなんてのは共感しやすくもあります。なので、何でそんなに伝わるのか?というのは先日も書いたように、相談を受けるとあるある話だったんですよ。
何でそんなにわかるの?伝わるの?って、そりゃ幼い頃からそれ以上経験して辛いって何なのか?を自問自答したり、記憶から周囲を観察したり、何度も何度も考え込んで処理しちゃってるから、でしかなくて。
逆に重すぎるとか、理解の外を抱えてる分、有りえない!おかしい!とも言われてしまうんです。
いうなれば、自身が矛盾そのものたり得てしまうんですよ。他者と交われば。
また、別な方向性の話をすれば、HSPがある程度出来上がっても、その先が出てくると思います。っていうくらいに感じ取り過ぎてるというか、こういう部分も突き詰め過ぎたら、もう科学とか人間の手の外になりそうなんですよね。
そういう部分も感じてるので、HHSPみたいな、更に上とか出たりしてねーって現時点でもそういう所まで行ってしまってる状態だったりします。
と、なんかこう、妙な話が多くなりましたが、今日はこの辺で。
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