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それこそ当たり前というほどに

目と光。
こういう部分については「おかしい」と言われるだけでなく。

意識しようがしまいが、”勝手に脳が処理して、状態を報せる”という、ね。日中であれば光がありますし、その光はまぶたを閉じても透過してくるので、目を閉じれば色だけが埋め尽くす視界に早変わり。

なので、
「目を閉じても、まぶたには血管が通ってるし、赤基調の色が見えるよね」
と、うっかり言ってしまった事がきっかけで・・・。

という、ね。
周りが余りにも、おかしいだあり得ないだを言い過ぎるから。
逆に確認しようとして、自身の禁を破る=普段誰も言わないことを口にするというのはやってました。

するとこう、途端に周囲の表情が変わるので。

答えを待たずとも、「あ・・・、やっちゃったんだ」


気にするではなく、脳が処理してそれこそ・・・

言語化されて、脳に結果がでるので、言葉として把握できてる。

また、まぶたを閉じてても光が透過するので、トイレとか入ると、
窓側から、徐々に陰っていくのも分かるほど。
色が変化していってるというのを、嫌でも認識させられます

普段は強く意識はしないものの、色が変化したりするので、気がついたときにはそういう色の変化を追うような感じに仕上がってました

まぁ、変な話、そういうところでも興味を持って追いかける。

好奇心旺盛も突き抜けてしまってるのか、それ故に口にして伝えてしまい・・・というケースもあるんですよ。

また、それ程に興味をもつ=グラデーションの様を細かく見て取れてる。
鶏がさきか卵がさきか、ではないですが。

そういう、影ができることでのグラデーションも存在するので、目に付くようなら変化を自然と拾って、こういう変化してますよ、と。

グラデーションだけでなく。
影と陰り方、光の波長も減衰するからこそのグラデーション、そういう状況として、何がどうなって、グラデーションが見えてるのか?も、ね。
同時に拾ってます。

単純な色の差ではなく。
それこそ色が見えるというのも、目が光を拾う部位だから。

それを子どもの頃から、突っ込んだ部分を持ち出してしまうような。

そんな感じだったし、それ故に今でも自然と。
意識しなくても感じ取れてるからこそ、一瞬意識するだけで把握してしまうんですよ。

何がどうなって、今目にこういう色や景色が映ってるのか?というのを、ね。


そして、光が指す隙間、通ってくる範囲も重要

「それなら、サングラスをかければいいじゃん」

に対して、

「かけたらかけたで、隙間からの光が、余計にささるから」

そうなんですよ。

サングラスで光を遮断しても、眼鏡だからこそ浮いてるし、かと言って特注でゴーグルを作れたとしても、今度は汗だ、くもりだという、体温との兼ね合いもあります。

それ以上に、隙間=小さい光の通り道を抜けたもの、というのは、その隙間の範囲、広さ長さしだいでは、目に当たる速さがかわるので。

トンネルでも、長いトンネルでない限りは、光の強弱を受け取る分だけ、眩しさは感じてる。

今でこそ慣れましたが
短いトンネルだと、それこそ、光の反射吸収の差が大きく受け取れてしまうので。
「ぶっちゃけると、眩しいのは確か」
という感じです

とは言え、眩しさというのも、光の強弱で発生するもの。
”眩しいと、クセで言いがちでもある。”
そう言えるほどに、我慢が可能な「光の強弱、その差」として受け取ってます

それ程にあるので、サングラスをかけても、光を目が拾ってる以上、隙間から射す程度の光でも
体が負荷になってると感じるようなら「避けた方がいい眩しさ」という判断がされてしまう。

なので、かける意味もなければ、出費が痛い。
我慢してれば良いだけ。

こういう判断になります。あくまで、個人的に。

便利だから使えば良い、ではなく。

多少我慢しても、環境になれさせた方がいい。
そういう判断をしちゃうんですよ。

変な話、環境適応で進化したからこそ、それを扱う。
というと、過大評価はいなめなくなりますが。

まぁ、子どもの頃からそうあるので、親が気を遣っても。
「そういうのは自分にとって良いという判断に至れないので」
そんなの要らない!ってね。

本当に厄介です。状況次第では、ですけどね。

それこそ、感じてるのは私自身。
それに対して何をどう説明しても、納得出来ないものは、性格以上に、脳での処理がされる時点で
脳故に、ノーが提示される。

なので、黙ってないと、細かく感じ取ってる=細かく状況判断もしてる
そういう状態なので、悪い方=大勢と同じじゃないが故に良くない評価になる物、については叩かれてました。


感じる、感じ取れる=判断という要素

本当に、そういう、ね?
敏感って自分から言うのではなく、下手すると「それを超えて鋭敏」という評価すら他者から引き出せるようなら。

当たり前の事として、状況や情報として認識し、判断をして扱ってると思います。

眩しいとか、臭いとか、うるさい、で終わらないんですよ。
なんでそういう事を感じるのか?の状況把握もセットです。

だから
「迂闊に口にしない。したほうが周囲にいる人、その場の状況様々な要素から、口にすることが悪いと言われる」

そういうのを、幼い頃から経験するだけでなく
本当に自分だけが指摘したり、表現したりすることになるので。
「ガマンを覚えさせられます」

まぁ、母の話によると1歳の時点で。
言葉がそんなに理解できないはずなのに、そのレベルを理解してると解釈せざるをえない

そんな状態だったようなので。

幼稚園に出るという、外界に出るが故の比較や経験以前から。

親が見てても「流石にこれはおかしいでしょ?」を当たり前のようにやってしまう程に出てたようです。

なのである意味、ガマンなんかは経験値が違うというより、幼いが故のワガママが通らないどころか、それが理にかなってると自身も判断できてしまったので。
「不満があっても、我慢するという部分は、いたすぎて辛いすらも、ガマンを可能にさせてた」

あくまで、個人として、ですが。
いわゆる過敏性腸症候群、その下痢として症状が出るようだと、ものすごーく痛いです。
今でも”人目を憚った上で”、歯の隙間でスゥー、スハーという呼吸をするほどですし、痛みを我慢するからこその様々な状態を、事細かに拾ってます。

更には下痢が治まる、これ以上出ないというのは、体のほうが先に判断するので。
治まった時点で、これで痛みは一旦落ち着くよね、という判断になりますし、そうなった時の、ね。

痛みを我慢してたからこその、緊張感が解ける状態。

すごくこう、安堵という感じですし、だからこその「体が疲れてる」という判断が頭に浮かぶものの、動くことが可能な余力があるので、行動する。

辛い、苦しい、疲れた、ではないんですよ。
やる必要があれば、学校での生活を続けますし、仕事も続けます。
実際は「休みたい」という気持ちすらありますけど。

だってもう、それを、小学1年の頃から。
「そうなるのはお前だけ。だからおかしい、文句を言わず我慢しろ」
だったので、痛みを訴える=時として人は不快に感じるものである。

そういう、深いところでの判断が出来る経験をさせられてた、とも言える状態でした。

なので、自分は辛いんだけど、痛みの程度や辛さはどうあれ、人間は誰しもガマンもすれば耐えもするというのを、学んだとも言えるので。

それこそ「辛い」だけでは、終われない。

それは私自身が真面目なのではなく、脳が勝手にそういう判断をしてくれるからなので。
頭にそういう言葉が浮かぶ=そういう判断を可能としてる。
どちらかというと、そういう感じです。

だからこそ、時として。
肉を切らせて骨を断つ、肉斬骨断という表現も使いますし、それはあくまで自分だけなので。

また、自分だけ=自分は耐えれるとはいえ、苦しみや辛さを実感してる分。
自分以外には「休んだほうが良い」
と。
実際、それで休む人って、我慢することが苦痛だから休むという方を選ぶ、なんですよね。

こういう、判断や認識の違いがあるし、それを言葉として伝えてるのに。自己犠牲とか、優しいとか言われるもんだから、ちょいと待て、なんです。

本人としては脳の処理と、生まれる判断が違いが、そうさせてるだけ。
そういう認識のズレも把握してるんですよ。

というか、1歳時点での話しを落とし込んでようやく気付きましたが。

生まれてない弟、それをお腹に宿した母
その様子を、恐らく目で見て気付いてただけでなく、正確に判断してもらうためとは言え「病院に行ったという事実」を鑑みての。
自分には構わせない、母を気遣うばかり
それは、次の子が生まれてくる、説明しなくても、何がどうなってるのかそこを把握したのかもしれません。

歴史というのは、文字を書くことで詳細に記されるようになった。
それと同じく、言葉で表現できない頃は、寧ろ記憶が皆無です。
更には、そうすると、ね?
それこそ、言語化が関係してますよね?という言及も出来る。

とにかく、こう、ね?
それ程に、良くも悪くも、それこそ性別の認識も合わせると。
バグが発生した、という表現が寧ろ適切だよね?というような。
そういう生まれ方しちゃってるんですよ。

やれやれだ。
自分の事なんだけど(笑)


それこそ処理=学んだことも活かして判断する

幼い頃からそうなら、今でもそう。

三つ子の魂百まで。

これも、地で行ってる感じです。

正確さを求めるというより、納得出来ないがゆえに残る違和感。
その違和感を消そうと調べる、踏み込むという感じです。

目に見えないからこそ、感覚的。
そういう部分には、違和感、が一番多いです。

幼稚園時点での話も、自分も絵を描いてるだけでなく、描くためには絵を見てなきゃいけない、だから目は絵や画用紙に向いてる。

でも、変な感覚を感じてしまうので、顔を上げて周囲をみてたら気がつく

流石に目に見えないものを、可視化するのは難しい。
でも、感じ取ってるし、それこそ、ね。
成長してからは、調理してる姿を眺めてる父に、
「何か用事あるの?視線向けてるでしょ?気が散るから止めて」

父の場合、言語化が苦手、出来ない。
それ故に説明書なんて、それこそ30代前半の頃から、必要に迫られても読むのを放棄するほどなので。
言葉に出来ないから伝えられない、でも何かしら感じて思いを込めてる視線を向けてくる。

また、小学校にあがってからのイジメ
過敏性腸症候群での下痢、それに対する事実無根の騒ぎ立て
それも「嘘の話を信じて、本人の弁解は聞かない」
その上で、「汚らしいものを見るという、感情のこもった視線」を、人数分受け取るハメになるという状態
だったので。

すごくこう、苦痛?いやもう、人間信じられない?

それに対して、状況説明をいくらしても、先生が対応しなければ、親も多数派に飲まれて私を注意するばかり。

これはもう、親すらも。
大人って意外とダメなんだな・・・。

そう判断するのも、当然なんですよ。

感じ取りやすい=判断や処理能力が既に年齢以上、でも子供のくせにで、認めない。

普段から、それ故に、面倒見が良いだ、優しいだ、能力が高いだ言うのに。
大人が面倒と感じると、ガン無視。

こういうの、気付きますからね?
幼稚園児という、幼い年齢であっても

目にしたもの、耳に聞こえたものに対して、疑問も覚えますし、それこそ大人が「大人風を吹かせながら」正しい事と、教えようものなら

言い出しっぺはしなくていいの?

子供だから、面倒が見れるのではなく。
大人が面倒くさがって拒否する判断をする。
幼い頃からしてないので身についてない。

そういうのも、確実にこなしていきます。

だから言うんですよ。

子供がHSCだというなら、もっと向き合え。
そうしないと、間違いなくミスをするから。

ホントこう、本音の部分って、そういう心理や精神という部分が叫ばれるようになっても。
言おうものなら、バツが悪くて親世代だろうが、同級生だろうが、皆が皆。「そんな事、おまえしかできねぇから!」
ということにして、面倒から逃げてるだけ、でしたから。

子供が、大人が関係なく。

そういう気づく、感じ取れるするだけでなくそれに対する判断も違う
それこそ、正しさとか、優しさという言葉を当てはめるとより厳密に”見えてしまうほど”

だってその、ねぇ。
良い評価も悪い評価も、自覚や実感に伴う説明以上に

周囲がしてくれましたから、ね。


あとがき

正直こう、幼い頃から。
「適切に判断されなかったので、自己評価の正直な部分」を出すのは、すごく苦手。
でした、今までは。

でも、そこの枷が、精神科通院も込みで外れつつあるので。

ネットでならだせるぞおおおお!

ネットでならというのも、周囲にいる人本人に出した所で、都合が悪くて怒るという予測が嫌でも当たりかねない

なので、そういう事をしたい時ほど、活かして深い所を探りつる。
小出しにして反応を見て、ダメそうなら、言わない、伝えないという選択もする。

そりゃそうだ。

嫌なものは嫌なのに、それが現実だからって押し付けても。
相手は苦痛だもの。
ましてや、面と向かってなら、なおのこと。
しかも最悪、手が出てくる事すら考えられますから。

自分がされて嫌なことを、してはいけないですよね。

ただまぁ、ネットの場合は、先日書いた#多様性を考えるの記事ではないですが。

寧ろ時代が逆転し始めてる、そういう兆候も見えてます

多数派を構成して、そういう事にしよう。
それを利用して、自分をよく見せよう!

そうじゃないですか?(グサッ

深く触れると余計なことを言いそうなので、お口チャック。

だから、情報って怖いですし、冷静に判断して、扱えた方がいい。

でも、そこには楽が出来ないという部分は必ず付いてきます。

そこを、楽がしたいがために、多数派が正しいとしようだなんて。

生まれたのが遅いだけの、昭和の人、ですよ。
その昭和の頃に、多くの人から「お前は違う、お前は一緒じゃない」と。
親からすら弾かれるようなタイプだったので。

そりゃ嫌でも被りますのよ。

ということで、チクチクやるのもほどほどにしつつ。

とはいえ、ね?

道具って扱うもので、情報も扱うもの。

それの都合のいいように扱われるようなるのは、良くないこと=ストレス社会の加速に繋がる悪循環。

その様に思います。

それでは。

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